メッセージバックナンバー


2005.1.30 「手を伸ばしなさい」船戸良隆師
聖書 マタイ 12:9〜21  (交読聖書 詩篇 4:2〜9)
本日はイエス様とパリサイ人達の、安息日論争の続きである。ある注解書に「この事件は、イエス生涯で一つの危機であった。この時、イエスは意識して、しかも公然と安息日の律法を破られ、その結果として14節にあるような事になった」とあるが、ここで初めて聖書はパリサイ人達がイエス殺害を真剣に考え始めた事を記している。
命がけと言う言葉があるが、正にイエスは、自分の命をかけて、手の萎えた人を癒されたのである。
9節・・・ユダヤ人は神殿で礼拝を行い、会堂はむしろ教育的色彩が強いと言われるが、勿論礼拝の為に入られた。そこにはパリサイ人や律法学者達もつめかけていた。
伝記によると、この人は石工で、イエスの元に来て「私は手でもって生活している者です。物乞いで恥を掻かないようにして下さい」と懇願したと言う記事がある。生活の手段を奪われ、途方にくれていただろう。年齢は書いていないが、家族持ちだったかもしれない。
伝記では右手が不自由とある。時々「もし目が見えなくなったら、もし口が利けなくなったら」と、自分の仕事に絡めて不安に思う事があるが、この人もそういう不安感を持ちながら、藁にも縋る思いで礼拝に出て祈っていたのであろう。
ところが彼を見て、パリサイ人達は、兄弟姉妹として共に礼拝をしようと来ている人を、イエスを陥れる策略の道具として扱いイエスを試そうとしたのである。
ユダヤ人達は徹底して安息日を守っていた。例えば、マカバイ記と言う外伝に、植民地として治められていたが、イエスの少し前の時代にユダヤマカバイオスというユダヤ人が反乱を起こし、一部のユダヤ人が洞窟の中に身を隠した時、ローマの軍隊が来て攻撃したが安息日だからと武器を取って反撃しなかった為に全滅したと描かれている。
こういうユダヤ人であったので、10節のような質問を会堂で礼拝をしている時に、自分の隣に苦しみ悩んでいる人がいて、その人が皆と共に礼拝しようとしている時に、それを材料としてイエスを陥れようとしたのである。
11節…安息日の規定によると、人にしろ、動物にしろ、生命の危険にさらされている場合には、助け出される事は赦されていたが、直接危険がない時は癒す事が禁じられていた。
イエスはその事を充分知っておられたにも拘らず、ここで羊の譬えを出されたのである。厳格に守る人は、それは出来ない事であったので、穴に落ちた羊には、餌を持って行ってやって生かしておいて安息日が終ってから助けたようであるが、この場合片手の萎えた人は、生命に関わるわけではなく、その事を充分ご存知の上で、イエスは12節のように言われて癒されたのである。
律法に照らしていえば、律法を破る事であり、その事を充分知っていながら、ご自分の命をかけて癒されたのである。それを見てユダヤ人達は「赦しておけない」と殺す相談を始めたのである。
15節…群集は、イエスに対して様々な思い、願いを持っていて、常に現実的問題を解決してくれるメシヤを期待していて、あわよくばその人を先頭に反乱を起こして、ローマの勢力から開放されたいと思ってもいただろう。
しかしイエスは、そのような事を望んでおられず、が、同時に多くの苦しんでいる人達を見捨てる事はなさらなかった。病気を癒し、自分の事を言いふらさぬよう戒められたのである。
そしてこの後マタイは、イザヤ 42:1〜3を引用している。同じ記事は、マルコにもルカにもあるが、マタイだけが引用しているのである。しかもイザヤの言葉をそのまま引用しているのではなく、一部を書き換えている。特に18節後半の言葉はイザヤ書にはない。
それは何故か? これは、マタイのイエスに対する信仰告白である。イエスのことを印していく時に、マルコやルカとは違うイエス様をイザヤ書のこの言葉を持ってきて、いっそうよりよく人々にイエスの姿を伝えたいとの信仰を持って、イザヤ所に書き加えて書いているのである。
「イエス様は、異邦人に正義を知らせる方」といっているが、その正義とは何か?
ギリシャ人、パリサイ派の人達のいう正義とは、一般的に律法に違反した人を罰すると言う事であり、これは、我々にとっても法律違反した人を罰するという事で同じである。
法律(律法)に従わない人には死をというのが正義だと言うのである。正義を貫く為には、人を死刑にするという判決を出しても仕方がないと考えているが、イザヤの述べている正義は違う。
真の正義とは、その正義を貫こうとした時に、正義に反した人を殺す以外にないという事に真っ向から反対する事が正義だとイザヤは考えている。
20節…傷付いた葦は一寸力を入れただけでも折れてしまい、灯心はひとふきで消えてしまう。そういう事をしないでそういう人達を生かしてくれる。葦のように弱い心の人を殺す事なく、ひとふきで消えてしまいそうな人を生かして下さる。そういう正義をイザヤは述べたのである。
だから、マタイもイエスの像を描く時にここを持ってきたのである。
ユダヤ人によれば、異邦人は神から離れている人。しかし、その異邦人をさえ、神は顧みて下さる。その異邦人が望みを見出すようにして下さる。それが正義であるといっている。
片手の萎えた人は、ユダヤ人でありながら、異邦人のように人々から無視されていたのであろう。主イエスはその一人のために、安息日に癒されたのである。
パリサイ人に殺されるという事を充分に知りながら、文字通り命をかけて、半端ものといわれた人を満たして、生かし、誇りを持たせ、望みを持たせ、自身を持って生きる事が出来るようにとその人を生かして下さった。そのことが正義だとマタイは言っているのである。
マザーテレサは、行き倒れの人達に「あなたはかけがいのない命を神から頂いている。あなたこそ神の愛の中に生かされている」と語りかけ、語られた人は安らかに眠ったと言われている。
ある牧師は「安息日とは、あなたが真実に神の愛に憩う日である。それ故に傍らの人の痛みに深く心を尽くす日である」といっている。
それをイエスは私達に問いかけておられる。
あなたの隣人の傍らにあって、主イエスがなさっている事を私達自身が、その人のために静かに「あなたが生かされている事は素晴しい事なのだ」と語りかける事が正義なのだとマタイは私達に語りかけているのである。