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2006.09.18 「あなたの存在は購われる」 罪を赦すイエスの権威 吉良 賢一郎
イントロ

 ある聖書註解者は、マルコ伝2:1-3:6の趣旨を、イエスの「罪と律法を支配する権威」という大きな文脈で捉えます。その区分けに従いますと、本日の聖書個所2:1-12は、その内の前者、「罪を赦す権威を持つイエス」の姿に焦点が当てられていると言うことができますでしょう。[1] また、別の註解者は、2:1-3:6を「イエスの権威をめぐる論争物語集」というひとつの文脈で捉えます。たしかに、マルコ福音書には、奇跡以外にもイエスの行為、権威をめぐる論争が多く収録されており、ここに「戦うキリスト」というマルコによる福音書記者のイエス像の特色のひとつを見ることができます。しかも、イエスの戦いは、「無時間的抽象概念」に対してではなく、悪霊祓い、病気治癒、ユダヤ教指導者の権威といった、「現実的且つ具体的」な戦いです。[2]
 本日は、この二つの視点に注意を払いながら、福音書を読んでまいりたいと思います。

I.   罪を赦す権威を持つイエス(中風の者の癒し)

 2:6-10までを抜き取って2;1-12までを読みますと、治癒奇跡の物語だけが浮き彫りになります。そして、その奇跡物語を分析すると、その中にある一定の様式を見て取ることができます。福音書のこのような読み方を一般的に「様式史的聖書批評」と言いますが、この方法に従って2章を読みますと、:6-10までの論争物語は、福音書編集作業の中で挿入されことになり、このストーリーが二つの要素を内に含みながら展開しているのが分かるのです。導入で触れました二人の註解者による二つの要素の指摘には、そのような様式史研究が背後にあります。

 さて、まず始めに見てみたいのは、中風の者の癒し物語です。

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た(:1-3)。

 話は、イエスが隠れるように滞在されていたカファルナウムのとある家[3]に、群集がこぞってやってきた、というシーンから始まります。[4] イエスはそこで説教していました。病気癒しではなく、神の国について語っていたのです。

 そこに四人の男たちが中風を病んだ男を運んでやってきました。中風の人は自分で歩くことができませんでしたから、担架か何かで運ばれてきたのでしょう。ちなみに、中風患者に関する言及は福音書と使徒言行録に計12回出てきますが(マタイ四回、マルコ四回、ルカ二回、使徒二回)、中風とはいったいどのような病気なのでしょうか。よく聴くわりには、余り馴染みのない病名です。そこで、手元にあった小学館の国語大辞典を調べてみまたところ、「脳卒中や脳梗塞の発作の後で現れる半身不随」とありました。つまり、この人は、長嶋茂雄さんや故、田中角栄元総理のような状態だったように思われます。しかも、四人の男によって運ばれてきたとありますから、或いはかなり重度の障害で、まったく身動きが取れなかったのかもしれません。

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした(2:4)。

 大変面白い描写です。中風の男を運んできた四人の男は、人垣にために正面玄関から家の中に入ることができず、屋根に穴を開け、そこから中風の男を担架ごとイエスの目の前につり降ろした、というのです。
 今日もそうですが、当時のパレスチナの家は通常一部屋しかなく、家屋の屋根は平らであり、屋根の造りは梁と木の枝を編んだものの上に約30センチの厚さで粘土を塗り固めるというのが一般的でした(NTDマルコ, 76、フランシスコ会 訳)。しかも、家の横の外壁には屋上へと通じる階段があったようですからから(使徒10:9参照)、屋根の上に登り、穴を開けることは可能であったでしょう(ちなみに、このような屋根でしたから、毎秋、雨季に入る前に修理を必要としました。NTDマルコ, 76)。
 けれども、事の重大さは、そのような行動が可能であったかどうかではなく、イエスの力に対する信頼からこのような行動におよんだ男たちが実際におり、この男たちの中の中心人物であった病人は、イエスに病を治す力がある、と信じていたということです。淡々と進行するストーリーの中で中風の男の言葉は一言も記されておりませんが、彼と彼を連れてきた男たちが取った行動と彼に対するイエスの言葉を見れば、イエスに寄せる彼らの厚き信頼は明らかです。主は中風の男と四人の男たちの信仰を見て言いました。「子よ、あなたの罪は赦される」(:5)。
 何度も確認してきましたので、病気の癒しを求めてきた男に「あなたの罪は赦される」とは異な仰せ、と思われる方はないと思いますが、ここで改めて確認しますと、ユダヤ教の世界観では、病は罪の結果と信じられていました。ですから、主は、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(:11)と言われたのです。病の治癒と罪の赦しがイコールであった宗教的世界観の中で生活していた聖書の民への、主イエスの「神の国」(神の完全なるご支配)到来の宣言、人々を再び神との交わりに連れ戻すという宣言です。
 中風はすぐさまこの男を去り、彼は癒されました。そして、「起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」(:12a)のです。すると人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美し」(:12b)ました。この病気癒しは群集にとって、罪に穢れた存在が贖われ、雪のように白くされる道がここに開かれた、ということの可視的証になったでしょう。その権威者はイエスです。
 人々はここで、詩編51:7の「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」という歌を歌ったかどうかは分かりませんが、彼らは後に、この「ヒソプ」の究極が、主が十字架で流される赤い「鮮血」であるという大いなる逆説を知ることになります。

II.   イエスの権威をめぐる論争

 次に、律法学者とイエスの「イエスの権威をめぐる論争」を見てみましょう。

ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼 らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた(:6-10)。

 マルコ伝記者は、これまで、ガリラヤにおけるイエスの悪霊祓い、病気癒し、そのことによる民衆の間におけるイエスの人気について記してきました。しかし、ここでは、ユダヤ教に対立するイエスの教えの内容を、律法学者、ファイリサイ派との論争の形式で提示します。そして、その論争の中心主題は、ガリラヤ人は認めるがユダヤ教の指導者たちは決して認めない「イエスの権威」についてです。[5] この論争はイエスの問題発言に端を発しました。
 もっとも、このようにマルコ伝編集者の論争設定の意図をさらっとまとめてしまえば、話は早いのですが、一読者として単純に思うのは、イエスが何か重要な行動を起こすときには、必ずファリサイ人や律法学者たちがそこにいる、という事実です。イエスがあえて彼らのいるところを選んで行動したのか、イエスを偵察するために律法学者たちが来たのか分かりませんが、両者はどこに行っても顔を合わせるのです。

 さて、イエスの「子よ、あなたの罪は赦される」という一言に律法学者たちは心の中で鋭く反応します。

この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。

 イエスという方を識らなければ、彼らの言っていることは完全に正しいと言わねばなりません。なぜなら、人間が神に対して打ち立てた壁を(「神」が人に対してではない)打ち破ることのできるのは神だけだからです(NTDマルコ, 77)。そ
して、たとえイエスをメシアと認めたとしても、ユダヤ教においては、罪の赦しは決してメシアからではなく、あくまでも神から与えられるからです。ところが、イエスの行為と発言はユダヤ教的メシアの域を超えていました。イエスは、あたかも自分が神の立場に立っているかのような発言をしたのです。どんなに差し引いても、そのような要素をイエスの言葉から拭い去ることはできません。ですから、律法学者たちはイエスの発言を神への冒涜と取り、憤ったのでした。
 ここでひとつのことがはっきりします。人々は、律法学者、パリサイ人も含め、メシアの到来を期待していましたが、来るべきまことのメシアとは、ユダヤ教の、ユダヤ人の枠を遥かに超えた大きなメシアであると言うことです。それはあたかも吹き抜け屋根の如く、天へと一直線に通じているメシアでした。神と一体のメシアでした。神そのものでした。であればこそ、ユダヤ教の律法では不可能であった神への道を、取税人にも遊女(売春婦)たちにも開くことができたのです。イエスの権威はこのような、神と人に間に立ちふさがっていた壁を打ち砕く神の権威でした。
 そのような主イエスは、吹き抜け屋根のような心で、律法学者たちの心を見抜かれます。福音書では「霊の力で」とあります。神は私たちの心をもいつもこのように覗いておられるのでしょう。私たちは言葉にならない祈りをたくさん心に抱えていますから、思いをすべて知ってくださるこのような神に心強さを覚えます。もっとも、それ同時に、正しくない思いも常に知られていますので、厳粛な思いにもさせられますが。
 心の中で憤る律法学者たちに、イエスは善の公案のような問いを提起します。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」 さて、ここで私たちも共に考えたいのですが、このどちらが易いのでしょうか。前者でしょうか後者でしょうか。律法学者たちは後者の方が簡単だと思ったはずです。なぜなら「言うは易し」だからです。この時点では、罪の赦しの象徴である、病気癒しはまだ為されていません。たとえ目の前で癒しが行われたとしても―実際に行われたのですが―彼らは尚、後者の方が易し、と言ったことでしょう。旧約聖書の預言者列伝を熟知している彼らは、預言者でさえ癒しは行い得ることを知っているからです。ピントはずれていますが、後者の方が正しいと思う彼らはまことに正しいのです。
 けれども、『起きて、床を担いで歩け』と言う方が簡単だ、と思う律法学者たちに、彼ら自身が発した7節の言葉「この人は、なぜこういうことを口にするのか」は楔のように効いています。この簡単な方を実行するためには、前者の『あなたの罪は赦される』という宣言が伴わなければならなかったからです。こちらの宣言をする方が遥かに難しいのです。ただの預言者は、肉体は癒し得ても、病気と言うメタファにがんじがらめにされている人間の心と存在を回復することはできません。それができるのは預言者以上の者だけです。[6] 自分にはそのような預言者以上の権威がある、ということを、主はこの律法学者たちとの問答を通してお示しになられたのでした。このイエスの問いが中風の者にとって易しいかどうかという問題ではありません。

まとめ

 イエスの言葉通り病気が癒え、自ら担架を取り上げてさっそうと家を出て行く元中風の男を見て、群衆は「度肝をつぶし」(NTD訳)神を賛美して言いました。「このようなことは、今まで見たことがない」。「今だかつて見たことがない・・・」。実は、驚いた彼らは今まで既にイエスの奇跡を見てきたはずです。なぜなら、そのような巡回治癒者イエスに驚嘆して、群集は主を取り巻いていたのですから。けれどもここで、「今まで見たことはない」と群集は言うのです。これは、彼らのイエス理解が、一歩深化したことを表していると見て良いでしょう。つまり、ただの医者から、神の権威を帯びた預言者以上の者としてイエスを理解し、「病と悪霊に勝利するこのお方」は、実は、「罪と律法から我々を解放する主」であると気付き始めたのです。[7]
 私たちも聖書を読む中で、祈りの中で、公同礼拝の中で、日々の礼拝の中で、「今だかつて見たことがない」と、より深い神理解、イエス理解に達し、常に感動を新たにしたいものです。



[1] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』73.

[2] 川島貞雄『マルコによる福音書』84-85.

[3] ペトロ、アンデレの家の可能性あり(フランシスコ会訳)。

[4] カファルナウムについては以前も触れたが、ゼブルンとナフタリ地方にあるガリラヤ瑚西北岸の村で、そこには収税所があり、ローマ軍隊の駐屯地であった。

[5] 川島貞雄『マルコによる福音書』85.

[6] R. Alan Cole.  T yndale New Testament Commentaries: Mark. 121.

[7] E. シュヴァイツァー『NTDマルコ』78.