メッセージバックナンバー

2007.12.30 「12日のクリスマス」 ヨハネによる福音書1:1-5 吉良 賢一郎

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネによる福音書1:1-5)

イントロ

私たちが呼ぶところの、いわゆるクリスマス、は先週に迎えてしまいましたが、歴史的教会が伝統的に保持している教会暦によりますと、まだ「クリスマス」です。もっとも降誕日としてのクリスマスでもその先駆けであるアドヴェントしてのクリスマスシーズンでもありません。週報にも記しましたように「降誕日後」のクリスマスであり、節目としての名称は降誕節です。具体的には降誕日(12月25日)から顕現日(エピファニー)[1](1月6日)までの期間を指し、日数にすると12日間になります。

I.                  The Twelve Days of Christmasというクリスマスキャロル

   ところで、英語のキャロルThe Twelve Days of Christmasという歌をご存じでしょうか。もともとはフランス語で書かれたようですが、英語に翻訳され、イングランドで大衆化したクリスマスキャロルです。アメリカでもクリスマスの時期なりますとショッピンモールやテレビのコマーシャルを始めとして、教会の日曜学校などでも繰り返し流され、また歌われます。とてもユニークでチャーミング歌ですが、歌詞の内容だけを見るならば不可解で何がなんだかさっぱりわかりません。以下のような内容です。
クリスマスの1日目の贈り物は「梨の木にとまった一羽のヤマウズラ」(A partridge in a pear tree.) クリスマスの2日目の贈り物は「キジバト2羽(Turtle Doves)」 クリスマスの3日目の贈り物は「フランスのメンドリ3羽(French Hens)」 4日目の贈り物は「鳴いている小鳥4羽」(Calling Birds)、5日目が「金の輪5つ」(Golden Rings)、6日目は「卵を抱いているガチョウ6羽」(Geese A-laying)、7 日目は「泳いでいる白鳥7羽」(Swans A-swimming)、8日目は「乳をしぼっているおとめ8人」(Maids A-milking)、9日目は「太鼓たたき9人」
(Drummers Drumming)、10日目は 「笛吹き10人」(Pipers Piping)、11日目は「おどっている女性11人」(Ladies Dancing)、そして最後の12日目は「とびはねている貴族12人」(LordsA-leaping)。これらを次々と足していって、数え唄のように歌います。(9、10、11日の贈り物はいろいろと入れ替わったりしますので、違うバーションで覚えている方もおられるでしょう。)福音館書店の『クリスマスの12日』にあるわしずなつえさんの解説によりますと、イギリスでは11世紀ごろから、クリスマスの12日間を祝うようになり、その期間には宗教行事とは別にさまざまなパーティーやゲームが楽しまれ、TheTwelveDays ofChristmasはその12日の最後の夜に行われた記憶ゲームであったそうです。つまり、「12人がひと組になって順番を決め、自分の番が来たら、自分の贈り物に続けて前の人が言ったプレゼントを順番通り全部言わなくてはならないという」遊びです。[2]

II.                  TheTwelve Days of Christmasの時代状況

 けれども、このかわいい歌の背景には実はもっと複雑な歴史と深遠な宗教的意味が隠されているのです。教会史、とは言わなくともある程度世界史に精通している人なら、1558年から1892年のローマ・カトリック信仰解放令まで、イングランド国王の権力と英国国教会支配下においてカトリック信仰が禁止されていたのはご存知でしょう。この長い期間、カトリック信仰は異端視されていたというだけではなく、カトリック信仰に関わるありとあらゆる行動が、公の場でも私的な場でも、禁止されていたのです。その禁を破れば極刑にも処せられました。つまり、カトリックであること自体が大犯罪であったという時代です。当然、カトリック教徒は自分たちの信仰を表明することも、子弟たちに教えることもできませんでした。信仰の継承ができなかったのです。そのよう状況下で、The Twelve Days of Christmasが改めて新しく再構築されたのか或いは既存のものであったかは不明ですが、この歌がいわば聖書の黙示文学のように、数え唄として覚えることのできる「隠されたカテキズム」(undergroundcatechism)として用いられたのです。もっとも、1649年から1660年までの護国卿クロムウェルを統領とするピューリタン政権による共和政時代には、宗派を問わず、イングランド国内においてクリスマスを祝うことは禁止されていましたので、その期間は国教徒もこの歌を用いて自分たちの信仰を子供たちに教えたのかもしれません。

V.                  The Twelve Days of Christmasのw)背後にある隠喩とその霊性

歌はこのように始まります。“On the first day of Christmas my truelovesent to me” (私の恋人が私にくれた贈り物は…)・・・。 “true love” はそのまま読みますと「恋人」の意味ですが、隠された意味は「神」そのものを意味しています。そしてプレゼントを受け取る “me”(私)とは、すべてのバプテスマされた者を指し、第1日目の贈り物「梨の木にとまった一羽のヤマウズラ」はイエス・キリストを指しま す。しかもただ単にキリストを意味するだけではなく、怪我をしたふりをして狩猟者たちの注意を引き、まったく無力な孵りたての雛のいる巣から 彼らを遠ざけようとする母鳥の姿がそこに描かれているのです。その背後にはおそらく、マタイ伝23章の「エルサレム、エルサレム、預言者たちを 殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、 お前たちは応じようとしなかった。」というイエスの言葉が暗示されているのでしょう。更に続きます。クリスマス2日目の贈り物「キジバト2羽」 (Turtle Doves)は神の啓示であり、神がどなたであるかを証言する「旧約聖書と新約聖書」を、3日目の贈り物「フランスのメンドリ3羽 (FrenchHens)は「信仰・希望・愛」(Iコリント13:13)[3] というキリスト信仰の要を、4日目の贈り物「鳴いている小鳥4羽」(Calling Birds)は神と人の和解というよきイエスのおとずれを告げる「四福音書(或いは)四人の福音書記者」を、5日目の「金の輪5つ」(Golden Rings)は人の堕罪とその人間の贖いの約束を告げる旧約聖書の初めの五つの書(モーセ五書)を、6日目の「卵を抱いているガチョウ6羽」 (GeeseA-laying)は創造者である神による「天地創造の六日間」を、7日目の「泳いでいる白鳥7羽」(Swans A-swimming)は「預言、伝道、教 育、奨励、施し、指導、慈善という七つの聖霊の賜物(ローマ12:6-8、Iコリント12:8-11)と「七つのサクラメント」を、8日目の「乳をしぼって いるおとめ8人」(Maids A-milking)は山上の垂訓でイエスが語った八つの美徳[4](マタイ5:3-10)を、9日目の「おどっていku髀乱ォ9人」 (Ladies Dancing)は「御霊が結ぶ九つの実『愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制』(ガラテヤ5:22)」を、10日目の「太鼓た たき10人」(Drummers Drumming)は十戒(出エジプト20:1-17)を、11日目の「笛吹き11人」(Pipers Piping)は誠実な11人の使徒(シモン・ペ トロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファヨの子ヤコブ、熱心党員のシモン、ヤコブの子ユダ(ルカ 6:14-16)を、そして最後の12日目の「とびはねている貴族12人」(Lords A-leaping)は「使徒信条の12の信仰表明」〔(1)我は天地の創り主、 全能の父なる神を信ず。(2)我はその独り子、我等の主イエス・キリストを信ず。(3)主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、(4)ポ ンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ(、陰府に下り)、(5)三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全 能の父なる神の右に坐し給えり。(6)かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審き給わん。(7)我は聖霊を信ず。(8)聖なる公同の教会、 (9)聖徒の交わり、(10)罪の赦し、(11)体のよみがえり、(12)永遠の命を信ず。〕をそれぞれ意味しています。歌うときはこれを次々と加 えながら、数え唄のように歌うのです。(奨励時にはCDで歌を紹介しました) もっとも、ここで意味されている信仰内容は、サクラメントを除い て、必ずしもローマ・カトリック特有のものではないことから、この歌の背景に関する物語は事実に基づかない伝説である、との主張もあります。 いろいろ調べてみましたが、全くの素人かカトリックの神父さんが書いたもの以外はすべて、同様の主張をしていました。けれども、同じくど素人 の私の想像では、当時のイングランド社会には、ローマ教会の信者たちが信仰の話をするだけで非カトリック権力と非カトリック教徒は敏感に反応 する、といったピリピリした空気が張りつめていたのではないかと思うのです。もしそうであるならば、カトリック教会の信者たちは、信仰内容の 如何に問わず、直接的な形で信仰の話はほとんどしなかった、と考えることも可能でしょう。実際、宗教改革時代の改革者たちのカトリック色払拭 の試みのいくつかは、表幕uハの形を変えただけで(イメージのチェンジ)、本質は何も変えませんでした。カトリック、プロテスタント双方とも 同じキリスト教であることを考えれば至極当然のことなのですが。いずれの説を取るにしましても、表面的には世俗の歌の装いをしながらもその背 後にキリスト信仰の豊かな内容を濃縮しているThe Twelve Days of Christmasは私たちに信仰の大きな示唆と信仰的霊操の機会を与えてくれると思 います。もちろん、当時の宗教論争を超えた次元で、です。[5] この歌の中には、聖書の教えとキリスト信仰の要素のシンボル化・コード (code)化(福音の文化的文脈化)とそのシンボリズムの解凍(ケリグマ[福音宣言])があります。それゆえ、世間のばか騒ぎとは質的に全く異 なりますが、クリスマスの熱に浮かれていた教会とクリスチャンたちは、クリスマスの後の12日間にThe Twelve Days of Christmasを口ずさみなが ら、それぞれ置かれば場所や状況で、この歌に込められた意味を確認しつつ、今一度クリスマスの意味を静かに考えることは極めて有益であると思 うのです。


結語

 年末を迎えて、私たちは今年の歩みを振り返り、その総決算の時を迎えています。みなさんはさまざまな思いでこの時を迎えておられるでしょうが、総決算の結果はいかがでしょうか。喜びに満ち溢れているでしょうか、「まあまあ」でしょうか。それとも、後悔の念に苛まれているでしょうか。私などは喜怒哀楽の錯綜した1年の日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、決して「ヨッシャー!」などとプラスの評価を下すことはできません。平たく言いますと、生身の人間であること、罪人であることを、今年も嫌というほど思い知らされたのです。けれども不思議なことに、「それでも」主の恩寵を覚え感謝することができるのですね。「だからこそ」主の恩寵を覚えることができる、と言った方が正確かもしれません。そのような生身の人間である私に、また生身の人間の集まりである私たちめじろ台キリストの教会というキリスト者共同体に、まことに不思議なことですが、主は信仰の松明(トーチ)を委ねられました。そして、その松明を来る新しい年にも携え続けるようにと励まして下さっています。 先ほどThe TwelveDays of Christmasから多くのことを学べると申し上げました。この歌のシンボリズムとコード(code=暗号)を通してで
す。コードはコードであるがゆえ、大体において直接的kuネ表出の仕方はしません。その是非については個々人いろいろな意見がおありでしょう。けれども、時に我々が発するコード(存在のあり方)の裏に潜む「何か」に、ある人たちは「何か」を発見するかもしれません。そして、時に思いがけないところで、それがまばゆく光り、私たちの家族の、友人たちの、同僚の、ご近所さんたちの心を照らすかもしれない、と思うのです。
控え目な言い方しましたが、本心を打ち明けますと、そうなると私は確信しています。キリストという松明は私たちの意思に関係なく、自ら光り輝くからです。
                       『闇は光に打ち勝たなかった!』[6]



[1]伝統的には、「東方の占星術師のイエス訪問、キリストのバプテスマ、カナの婚礼における
キリストの栄光の現れ」を記念する期間。森紀旦『主の御言葉:教会暦・聖餐式聖書日課・特祷』(聖公会出版、2000)95-96参照。
[2] わしずなつえ『クリスマスの12にち』(福音館書店、1999)Leigh Grant, Christmas: A Celebration andHistory. も参照。
[3] 東方の占星術師が幼子イエスに捧げた「金・乳香・没薬」という説もあります。
[4] 山上の垂訓の冒頭でイエスが教えられたことを「美徳」と捉えますとイエスが意図された
意味が損なわれますが、原詩ではbeatitudesとなっていますので、ここでは「美徳」と訳しました。
[5] この歌を題材にした目的は、ローマ・カトリック教会を擁護するためでも、英国国教会やピューリタニズムを擁護するためでもありません。
[6] 資料がほとんどない中、http://www.snopes.com/holidays/christmas/12days.aspのサイトからとりわけ示唆に富んだ多くの情報を得ることができました。