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2008/05/04 「顕現する世の光」 ――「ともし火」と「秤」のたとえ
――マルコによる福音書4:21-25

:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。 :22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 :23 聞く耳のある者は聞きなさい。」:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 :25持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

イントロ

前段の譬話でイエスは、「種」をテーマに「実を結ぶ種」「実を結んだ実」について話されました。実を結ばずにはおらない「神の言」です。今朝私たちに開かれているテキストはその続きですが、譬話の第二弾は「光」がキーワードです。結論の先取りになりますが、イエスは「光」と「その機能」を引き合いに出しながら、神の言葉は自ずと現れるということ、真理の究極的目的は「顕現」であること、そして光を見るだけではなく、その真理に耳を傾け、理解することができるのは神からの賜物であることを語ります。[1]

I.                   秘密は顕現する

 この譬話を聞いて皆さんはおそらくマタイ伝の山上の垂訓を思い起こされたでしょう。このマルコ伝との並行箇所、マタイによる福音書5:14-16です。

:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。:16 そのように、あなたが
たの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

もっとも焦点はまったく異なります。「光を受けた者の在り方」を語るマタイ伝に対して、マルコ伝は「光の性質」について語るのです。

:21 また、イエスは言われた。「ともし火(lucnoV=あかり)を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか(mhti:否定の強調)。
燭台(lucnia)の上に置くためではないか。:22 隠れているもので(kruptoV:強調)、あらわにならないものはなく、秘められたもので(apokarufon)、公にならないものはない(動的)。

「隠れているもので」(kruptoV)は強調文です。もっとも強調されているのは「隠されていること」自体ではありません。隠れたものの究極的目的は顕現です。[2] 隠れるもの、隠されるものは、この目的のために隠れ、隠されるのです。「かくれんぼ」のようのもの、と言えば分りやすいでしょうか。ですから、隠されているにも関らず、いやそれだからこそ「あらわになるのだ」という点にマルコのアクセントがあるのです。枡の下に置こうが寝台の下に置こうが(*mhti:否定の強調)現れてしまう。イエスは外部の者には神の啓示(神の国の奥義)は隠されている、と言い
ながら、それは今だけで後に明らかになる[3]、と暗示する理由はここにあります。
この視点は、「聖なるものはおのずと顕現する」という宗教学者エリアーデが展開したヒエロファニ論とはまったく質は異なります。アニミスティックな顕現ではなく、ヨハネ伝のイエスのように人格を伴った、極めて能動的な真理の開示なのです。ヨハネは言います。「闇の中で光は輝いている」。闇は光を抑え込むことができなかったばかりか、光を明かりにしてしまいました。
この能動的人格を伴った光であるキリストは、同じように人格による能動的な応答を私たちに求めます。昔、大阪聖書学院の杉山先生は福音書の講義でこのようにコメントしました。「キリストは光であり、隠されるために来たのではない。しかし、キリストはこの世の『出世』というあり方で明らかにされるのではなく、むしろ、神の内に隠されることによって、神のもとに悔い改めるものだけに明らかになる現れ方をなさった。光はすべてを照らす。光は闇をも消す。すべてを暴露する。そこから始めて新しい命が始まる。」(エフェソ3:9、コロサイ1:26、 子Iコリント2:7、4:5参照(講義録)。
天来の知識は宝物のように隠されています。けれども、それは信じる者の魂に、徐々に、現れてくる。[4] いま隠されていることは、来るべき顕現のプレリゥードにすぎないからです。アンセルムスをはじめ、アウグスチヌスなどは「知解を求める信仰」言いました。極めて終末論的議論です。[5]
それゆえイエスは言います。:23 「聞く耳のある者は聞きなさい。」 (聞くことができたらそれは神の賜物)。

II.                   神の秘密を量る心

前者の後者の譬話の繋ぎは、素読すれば、ぎこちなさを感じますが、それはもともと二つの資料をマルコが編集したからだと思われます。ただし、「秤」と「枡」は類似した言葉ですので、マルコ以前の資料の段階で、記憶しやすい仕方でワンセットの譬話としてまとめられていた可能性も否定できません。[6]

:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る(metron)秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる(より多く与えられること、を言おうとしているのではなく)、:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

この譬でイエスは、神の国が授けられている弟子たちに、それを注意深く聞いて理解することを強く勧めます。「何を聞いているかに注意しなさい!」。「注意して聞け」の反意語は「聴かないでいるな」です。なぜなら、信仰の言葉は、本質的に、霊の眼を欠く者、存在をかけて聴かない者には、不可解極まりないからです。[7] 事実、イエスの譬は、言葉上は日常的事物についての語りにすぎませんでした。けれども、譬に盛られたメッセージは霊の言葉(宗教言語)だったのです。そのような譬の中に潜んでいる神の言を理解するためには、霊の眼、魂をかけて聴く姿勢が当然要求されたのです。
もっとも、主は、自分の枡(量り)以上のことをしろ、と無理強いはしません。注意深く知ること怠る者は既に持っている知識までも失ってしまう、という警告を発しますが、イエスが提示する神は、私たちの理解力に応じて、神の国の知識を与えて下さる、と約束して下さるのです。「自分の量る(metron)秤」で善いのだと。ちなみに、「更にたくさん与えられる」とのイエスの言葉は、人間の認識で一喜一憂するような陳腐な恵みの増減を言っているのではありません。イエスの言葉の中に神の国の秘密を「量る」人に対して、「あなたが量る秤で、多く量り、多く与えられる」と端的に言っているのです。Whatever measure you use yourself will be the one in which truth will be
measured out to you and increased to you.[8] けれども、「枡」のサイズは決して小さくないということは確認しておかなければなりません。「枡」はラテン語はmodiusで、当時はひと枡11リットル(a pack measure, bushel)
の容量がありました。

結び

譬話はいつまでもミスティリオンのとどまるのではなく、イエスの言葉を聞く者を――聖書の読者を――約束の成就という恵みの中に呼び出します。私たちは、聴くことへ、恵みを受ける態度へと呼び出されているのです。ですから、神の発見されるとろでは、誰も隠れたままでいることはできません。暗闇の中で爆発した神の光は、そのなかで生きる人に光の充満を引き起こします。[9] それは進行形の、継続する復活の命の充満(プリロマ)に他ならないのです。



[1] Ezra P. Gould, The International Critical Commentary New InternationalCritical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel ofMark (Edinburg: T. & T. Clark), 77.
[2] Ibid, 78.
[3] フランシスコ会訳新約聖書該当箇所注参照
[4] Ezra P. Gould, The International Critical Commentary New InternationalCritical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel ofMark (Edinburg: T. & T. Clark), 78参照.
[5] L. Lane, The New International Commentary on the New Testament: TheGospel of Mark, 166, 167.
[6] 川島貞雄『マルコによる福音書』教文館、102.
[7] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』参照.
[8] Ezra P. Gould, The International Critical Commentary New InternationalCritical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel ofMark (Edinburg: T. & T. Clark), 78
[9] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』133.