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2009元旦  「暦の持つ力」 創世記 1:1、1:14; 出エジプト記 12:2

 新年明けましておめでとうございます。このように挨拶いたしますと、東西南北から、西方の教会暦(グレゴリオ暦)の新年を祝ったばかりですよ(待降節・降臨節)、東方の教会暦(ユリウス暦)でも既に年が明けていますよ、お隣の朝鮮半島や中国からは、それは太陽暦に限定された新年でしょ。こちらは旧正月ならぬ正正月はまた迎えていません! といった声が聞こえてきそうです。現にめじろ台キリスト教会でも西方の教会暦に従い、ついこの前、新年をお祝いいたしました。

 けれども、やはり、明けましておめでとうございます、と今朝、お互いに新年の挨拶を取り交わしたいと思うのです。それは、町中が新年の装飾で飾られている、からだけではありません。日本国における太陽暦の採用がいつであったにしろ、現に私たちはその暦の中を生き、ピンと張りつめた空気を感じているからです。昨日(大晦日)と今日(元旦)の間に何か決定的な違いを私たちは心の底で感じているからです。年頭に、日本人の多くが大挙して神社仏閣に詣でる現象は、何よりもその真実を物語っているのではないかと思います。暦のもつ特質は不思議と言う他ありません。マジックです。

 さて、暦が持つ神秘、その魔法は一体何なのでしょうか。 私見ですが、「明ける」という出来事にその本質が潜んでいるのではないかと私は考えています。「過ぎ越し」と言い換えても善いかもしれません。垢にまみれ、労苦に満ちた、当たり前とは言い難い旧年をなんとかしのぎ、新しい年を迎える事が出来た、という神秘的恵みへの驚きと感動です。「ありがとうございます」の有難い様(有ることが難い)です。暦は、人の力を超えて時を刻み続ける可視的新しい創造の歴史なのです。

 聖書の民、この真実を、ひしひしと感じて生きてきました。

「神は天と地を創造された」(創世記1:1) そして、「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。』」(同1:14)

歴史の始まりです。

「この月(過ぎ越し達成)をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」(出エジプト記 12:2)

暦の始まりです。

 けれども、私たちキリスト者にとって最も重要な始まりは、イザヤ書の預言の言葉に暗示されています。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(イザヤ書 9:5)

 創世記の創造がマクロの創造であるならば、イエス・キリストの降誕は、ミクロの創造でした。大変おめでたい出来事であったとは言え、顕微鏡を使ってじっと観察しなければ見つからないほど小さな場所(パレスチナの家畜小屋)で起こった出来事だったのです。

 けれども、そのミクロの新しい創造をキャッチした人たちがいました。その人たちによって、イエスによる神の救いの記憶は、新約の新しい暦という形でパワフルに物語られ、その信仰の記憶は世代から世代へと伝えられてきたのです。あり得ない形でです。

 私はこの暦を振り返る時、石ころの叫びを聞きます。バプテスマのヨハネは「神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を作り出すことができる」と言われました。あり得ない形で、石が叫びだすのだ、と。

 年が明けました。故に、新年明けましておめでとうございます、と御挨拶申し上げます。