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2009/02/10  「陶器師と粘土細工」 ――神と人(アダム)―― 創世記2:4-7

イントロ

 天地創造のエピソードは、一章と二章のそれでは順序や書き方が異なり、背後には資料的にやや複雑な絡み合いがあります。けれども、そのようなテクニカルな事柄は脇へ置いて、二章の人間創造の物語が私たちに何を指し示しているのかを、探ってみましょう。

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。

 資料的な問題には踏み入らないと断りを入れましたが、「まだ土を耕す人もいなかったからである」という挿入句が示す通り、二章の天地創造の物語からは、農耕民の匂いがプンプンいたします。野の草木が生えていない原因を雨が降らないことに帰している・・・。しかも、創造前の虚無が乾期による、と言わんばかりに、「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから」だと言うのです。

 ところが、無からの創造(ex nihiro)を語る創世記は、雨の代わりに、「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」と語ります。注目すべきは、聖書全体を通じてさまざまな宗教的シンボルに満ち満ちている水――しかも、湧水(イードル・ゾン)が、命の創造に先駆けて、登壇させられている点なのです。聖書の用例では、湧水は溜まり水とは対照的に、命の水として描かれています。イエスがサマリアの女に言われた「私の与える水は決して枯れない」という言葉も、「湧水」の延長線上に出てきた言葉でした。

さて、この創造物語の読者は、混沌としたカオスに地から水が湧きい出、地面を潤し始めた、というシーンから、何らかの「創造」を期待し、想定します。すると7節

2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 神は土をこね、人型に形作り、その粘土細工の鼻に「命の息」を吹き入れた。すると、その粘土細工は生きるものとなりました。

 このエピソードをさらっと読むことも可能です。けれども、農耕民の匂いが漂うこの物語を注意深く探ってみますと、いくつかの重要なキーワードが見えてきます。ひとつは、ヘブライ語でアダマと呼ばれる「土」です。もし、神が湧水で地を潤さなかったならば、こねることのできる土は生じません。もう一つのキーワードは「水」です。土をいじる人たちはその至極当たり前な、けれども大変重要な真実を、経験知として識っておりました。地下からの潤いは、粘土質の土を粘土に変えるということを。粘土はこねればさまざまな形の食器になるということを。

 陶器職人(ヨツゥエル)に譬えられた神は、その粘土を用いて人を形作ったのでした。死んでいた大地から草花を萌えいでさす「命の水」で、人型の粘土細工を形作ったのです。

 神はその粘土細工の鼻に命の息を吹き入れられました。その時、人は生きるものとなったのです。ヘブライ語を直訳すれば「生きた魂(ネフェッシュ・ハヤー)になった」です。しかも、一章の人間創造のエピソードで補いますと、単なる生き物ではなく、「神のイメージ(似姿)」に創造された生きものです。この点が、人間(アダム)と他の生物を決定的に峻別する点でした。(この場合のアダムはthe manであって、個性としてのアダムでないのは言うまでもありません。)

「鼻に息を吹き入れる」・・・何とも不思議な描写です。人間の究極的な問いのひとつに「命はどこにあるのか」というものがあります。命はどこにあるか・・・。洋の東西を問わず科学的医学が発達する以前、ある人は心臓に、ある人は脳に、ある人は脳天に命があると考えました。たとえば、中世期の人のものと思われる、脳天に穴の空いた頭蓋骨がフランスで多く発見されましたが、これは脳天に命があると考えていた人たちの仕業です。けれども、他方、メソポタミアの古代人たちは、命は鼻に潜んでいると考えたのです。

 死んだら息をしない、けれども生きている間は息をする・・・。この現象を注意深く観察した人たちが、鼻に命・魂が宿っている、という理解を持つに至ったのは自然と言えば自然です。古代人の鋭い洞察力と感性のなせる業でした。

 さて、現代を生きる私たちは、命はどこにあるというのでしょうか。「この両の手の中にある」・・・これが現代的な答えでしょうか。けれども、問いたいことは、命のあるないの差は何であるかということです。医学的にではなく、人間学的に、存在論的に、私たちはどのような答えを持ちうるのでしょうか。

この簡単そうで大変悩ましい問いは皮肉にも、私たちが、もののけの世界を失えば失うほど、つまり、科学万能の世界が進めば進むほど、答えを見出すが難しい問いとなっています。

 では、聖書は何と語っているのでしょうか。神から命を頂いて、生きるものとなった人の真実を色濃く語る聖書は、何と言っているのでしょうか。創世記の記述には確かに、古代人の文化的香りが染み込んでいます。けれども、「人間存在」の源泉を語る創造物語は、ニヒリズムの現代社会に対して、ex nihoro(無からの創造)の世界を、命の真実を懸命に語るのです。

「人は生きるものとなった」と云う場合、生きていないものではなくなった、存在しないものではなくなった、ということです。神が私たちを存在へと招いて下さった、という真理を、この短い一句は私たちに宣言しているのです。しかも、命の水が染み込んだ高貴な土を肉体の材料として。これほど力強い霊肉二元論への論駁、霊だけではなく肉体も大切であるという全人的人間存在の肯定はありません。