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2008/12/07  「キリスト教会のアドベント」――記念と祈念―― マタイによる福音書3:1-12

:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 :3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 :4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 :5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 :6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 :7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 :8 悔い改めにふさわしい実を結べ。 :9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 :10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 :11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 :12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

イントロ

 アドベントの第二主日を迎えました。先週も触れましたが、アドベントにはラテン語で「到来」という意味があります。何が、誰が、到来するのか。申すまでもありません。神のひとり子イエス・キリストです。日本聖公会(アングリカン教会)の祈祷書(The Book of Common Prayer)では降臨節と訳されていますが、救い主がこの世に到来するのを待ち焦がれるその思いを込めた訳語には「待降節」というものあります。

 さて、「主の到来」ですが、私たちがクリスマスに記念するのは2000年前に神が歴史の中に手ずから介入して下さり、私たちの「罪からの解放」ために救い主を送って下さったということです。つまり主の降臨です。けれども、キリスト後の今を生きる私たちは2000年前の出来事に思いを馳せるためだけにこの季節を特別視するのではありません。それだけではなく、私たちが主の降臨に重ねてみていることは、主の再臨なのです。待降なのです。再び来られるその時なのです。アドベントはそれ故、この二つの性格を持ち、私たちにとりましては降臨の記念と来臨の祈念の二重のキネンの時に他なりません。そしてこの二つの性格は「喜び」と「悔い改め」という言葉で言い換える事が出来るでしょう。

 「クリスマス音楽ガイド」で、川端純四郎氏は、後者の性格――悔い改め――に関して、このような解説を施しています。

昔から、この時期には、断食をして身を謹んで日々を過ごしました。また「ミサ」式文の中の「グロリア」(クリスマスの夜に賛美された天使の歌に基づいて、神の救いを賛美する歌)をはぶいたり、祭壇の布の色は悔い改めのシンボルの紫色にしたり、結婚式をしなかったり、ドイツのプロテスタント教会では「カンタータ」を歌わなかったりと、さまざまなしきたりがあります。[1]

ローマ教会、プロテスタント教会の違いなく、西方の教会がこのような習慣を守るようになった背景には、東方正教会の影響があるといわれています。東方教会のカレンダー(ユリウス暦)では1月6日がクリスマスですが、東方正教会の洗礼志願者たちは、1月6日のクリスマスに向けて、40日間精進潔斎しました。この習慣を西方教会が5世紀ごろに受け継いだようです。

さて、前置きが長くなりましたが、イントロで触れました、アドベントの二つの側面を念頭に置きながら、アドベント第二主日によく用いられる、バプテスマのヨハネ登場シーンを皆で読んでみましょう。

I.                   浸し屋のヨハネ登場

マタイによる福音書によりますと、三章で何の前触れもなく、洗礼者(バプテスマ)ヨハネが登場します。

:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 :2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

洗礼者と訳されている言葉はヴァプティスティスですが、ギリシア語の意味は単に「浸す」(ヴァプティゾ)という動詞から派生した「浸し屋」という名詞です。今でこそ「バプテスマのヨハネ」と聖なる(?)タイトルを獲得していますが、当時の人にしてみれば、奇行とまでは行かなくても、見慣れない「水による浸し・罪の洗い」を始めた預言者でした。もちろん、ある人にとっては単なる奇人変人です。洗礼者(浸し屋)というあだ名は後者の印象を受けた人が彼を揶揄して付けたものかもしれません。

さて、ヨハネが登場した「そのころ」が一体いつのことなのか正確なことはわかりません。けれども、ヨハネはイエスの公生涯に先駆けて活動していたことを考えますと、イエスの公生涯開始の直前と考えて良いでしょう。

ヨハネの活動の目的と彼の発したメッセージは明確です。私たちはそれをいくつかのキーワードから読み取ることがでます。「主の道をまっすぐにせよ」「悔い改めよ」「そのために、水で洗礼を授ける」「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」・・・。これらの言葉をまとめますとイザヤ書の言葉に収斂します。「『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(:3b) これがヨハネに与えられた使命でした。

それ故、ヨハネは「悔い改め」を人々に迫り、それを期待したのです。なぜなら、「天の国は近づいたから」です(「天」は神の言い換え)。新約聖書ギリシア語原典では現在完了形で表現されていますから、ニュアンスは「もうそれは、既に近づいてしまっている」「近づいてしまっているのだ!」と訳した方がこの言葉に込められた意味が迫力をもって迫ってくるでしょう。

ちなみに、ヨハネは人々に悔い改めを説きますが、それは単に、省察や反省を促しているのではありません。マタイは「メタノオ」という動詞を使っているのですが、それは「180度向き直り、方向転換せよ」という意味の言葉です。そして、旧約聖書の預言書の響きを再現するヨハネの言葉を投影するならば、「悔い改めよ」は即ち、「神に立ち返れ」「神のほうに向きなおれ」「神が結んで下さった契約に立ち戻れ」というメッセージを放っているのです。聖書釈義家フランスの言葉を借りるならばradical conversionへの招きです。

II.                   ヨハネのあだ名「浸し屋」と「神の裁き」の相関性

 ヨハネは力強く、そして強烈に悔い改めを人々に迫りますが、その理由は何でしょうか。なぜ、ここまで激烈に神に立ち返れ、と民衆に訴えかけるのでしょうか。たしかに、「神の完全なご支配が今開始された」という宣言から、また「私よりも優れた方が来られるから」と理由は述べられていますが、ヨハネの究極的主張は何のでしょうか。 それは、私たちには耳触りの悪い言葉ですが、「来るべき『裁き』と『神の時』に備えて」です。

悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・ :10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

ヨハネの言葉には、イエスの降臨、それ即ち裁きの時でもある、というのです。それ故、ヨハネは、「悔い改め」のしるし(token)として「水による浸し」(バプテスマ)を施したのでした。

 私たちはイエスが登場するとホッとするが、バプテスマのヨハネの登壇時には妙に緊張しませんでしょうか。福音書にイエスが現れてほのぼのした気分になるのはイエスの語られた福音の内容によるのは言うまでもありませんが、バプテスマのヨハネの寄与も多少あるのではないか、と個人的には考えています。

 さて、ヨハネが「神の裁き」を強調する理由を、ヨハネの思想とその背景に焦点をあてて考えてみましょう。

ヨハネの活動、説教によってユダヤの民衆の間に一種のリバイバル運動がおこり、ユダヤ教内に「ヨハネ一派的」グループが出来上がりました。[2] ファリサイ派や律法学者にはないストレートで預言者的なメッセージをヨハネは発したからです。古代ユダヤ人歴史家ヨセフスもヨハネの活動をユダヤ戦記(xviii)に記録していることを鑑みますと(しかもイエスの活動よりも多く)、ヨハネの運動は福音書が語る通りに大きな影響力を誇っていたと考えて良いでしょう。福音書において、ヨハネは常にイエスとの関わりにおいて言及され、その働きはあくまでも救い主到来の先触れであったとしてもです。イエスの神の国運動に先駆けて、バプテスマのヨハネはこのような大きな運動を引き起こしていたのでした。

:5 エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 :6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

ヨハネのタイトル「浸し屋」は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)を通じて、彼の名に関されています。ただのヨハネではなく、「浸し屋の」「浸しをすることで有名な」ヨハネである、と。

この「浸しの行為」(バプテスマ)は、死海文書の発見によって、もともとユダヤの荒野で修道生活共同体を形成していたクムラン教団の中で実践されていたことが判明しました。清めの儀式、罪の洗いの儀式です。クムラン教団は、エッセネ派と呼ばれる神秘主義的ユダヤ教の一グループで、神秘主義的宗教思想に基づき、共同の修道生活を営んでいた集団でした。研究者によりますと、その宗教思想は極めて終末論的であったようです。つまり、彼らは既にこの世の終わりを熱烈に信じ、神の裁きをまじかに感じ、その裁きへの備えのために荒野で祈りの隠遁生活(終末を生きる生活)を送っていたのです。

それゆえ、バプテスマのヨハネを、このクムラン教団の一員かそれに非常に近い関係にあったと見るのは妥当です。[3] ヨハネのなりと生活(:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた)が終末に到来するエリヤを想起させる姿であり(「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」列王記下1:8)、その説教も極めて終末的色彩を帯びていた、という事実も、そのことを大いに我々に暗示している、と言えましょう。[4] 実際、ヨハネはエリヤのごとく何の前触れもなく現れ、エリヤと同じように、王と王妃と対峙することになります(具体的にはヘロデとヘロデヤ)。

 しかしながら、ヨハネの活動がクムラン教団のそれと決定的に違う点は、彼は荒野で隠遁修道生活をしながら、いわば出家人をリクルートするのではなく、荒野の隠遁生活から抜け出し、人々のただなかに飛び込んだ、ということです。しかも、クムラン教団で行われていたバプテスマ(罪の洗い・清め)が内部のメンバー同士の行為に留まっていたのに対し(水による清めの要素が強い)、ヨハネはそれを預言者の活動として、「救い主の道を整える荒野で叫ぶ声として」、悔い改めの「しるし」(token)として、外に向かって、民衆に実践したのです。ある聖書釈義家はこれを「密儀のパブリック化」と表現しています。[5] クムラン教団は既に終末の中を生きていましたが、ヨハネはその始まり、またその成就をイエスに見たのです(クムラン教団は、その時が来るのを待ちわびながら荒野で修道生活を送っていました。[6]

 それ故ヨハネは言います。

:8:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

結び

 冒頭で私たちのアドベントは「記念」と「祈念」だ、と申し上げました。降臨の記念と来臨の祈念です。主が家畜小屋の中で誕生された時、人々はイエスと名付けられた赤子の中に自分たちの「存在に回復」を見ました。罪の赦しと人間存在の贖い、神との平和(シャローム)の回復(和解)を見たのです。私たちもそれを自分に起こったこととして神に感謝し、その出来事を記念します。

 では、主の来臨のしるし(聖霊)を頂いている者として、私たちは、来る「その時」を祈念しながら、何を思うのでしょうか。「悔い改め・・・」でしょうか。 ヨハネが激しい言葉で民衆に悔い改めを迫った直後に、主イエスが「澄んだ瞳で」、物静かに「私も浸してくれ」とおっしゃれた光景と、その主が「平和があるように。あなたの罪は赦された」と宣言しながら、方々をめぐり歩かれた真実に思いをはせる事が出来るならば、私たちの悔い改めは、喜びに昇華され、悔い改めの言葉は福音の善きおとずれへの感謝の言葉に還元されるでしょう。

アーメン


[1] 「クリスマス音楽ガイド」(キリスト新聞社[2007]、29)。
[2] R. T. France, Tyndale New Testament Commentaries: Mathew, 89.
[3] 今日、これは聖書学者間の共通理解と言える。ルカ1:80もクムラン教団との関係を暗示しているか。
[4] R. T. France, Tyndale New Testament Commentaries: Mathew, 90.
[5] Ibid., 90.
[6] Ibid., 91.; The Community Rule (Manual of Discipline) 8:12-14; 9:19-20.