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2009/12/21  「クリスマスが映し出す孤独の色合い」  ―「クリスマス」対「クルシミマス」― 
イザヤ書 46:3-4

『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)

新聞によると、この季節、欧米では自殺者が増えるらしい。日本でいえばお正月のような「ファミリーシーズン」に出る自死者だ。とりわけ、一人孤独に暮らしている方々の中に命を絶つ方が多いと言う。理由は千差万別であろうが、敢えてその理由をあげつらう必要もあるまい。孤独という社会の抱える病に倒れたのだ。

その記事を読んだ後に、高尾山に上り、頂上の途中に所在する高尾山薬王院有喜寺の護摩焚きを観察した。平日の昼間にもかかわらず、決して少なくない人たちが護摩焚きに参集していた。皆手を合わせている。殺伐とした都会の暮らしの中にあって、どれだけ心をホッとさせられたことか。

第二次世界大戦後の日本社会構造は大きく変化した。産業が復興し、都市化が進み、社会が世俗化し、伝統的村社会・家社会が崩壊(溶解)した。そのことによって家族は核家族化し、個人主義が台頭(イミグレ)しだした。個人主義の素晴らしい点は多くある。けれども負の遺産は、孤独の増幅であろう。個人主義がもたらした少子高齢化による世代間の断絶がその背後に横たわっている。このような社会にあって、孤独は増幅するばかりだ。「孤独死」の問題はその一つの帰結であると言ってよい(例えば団地の孤独死)。「孤独」を生み出した社会は「神殺しの社会!」である。

なぜこのようになったのか・・・。新聞各紙論調は違えど、決定的な答えは誰も提示できていない。

「ではおまえは?」と問われると苦しいのであるが、個人的意見は・・・家族社会の崩壊は宗教共同体の崩壊に起因、或いはそれと連結していると思う。その反対もまた然りであろう(富士講などはそのよい例)。もちろん日本の宗教はどちらかというと「見えざる宗教」の部類に属するが、それでもかつては神仏に対する自覚的意識があり、先祖祭祀信仰に基づいた縦の線を軸とする横のつながりあり、共同体と言えるものがそこにあった。明治期に人為的に作られた天皇制に基づく日本国家神道がスタートするはるか以前から連綿と存在し続けてきた、イエ・ムラ社会の共同体であ
る。

我々はこのような社会の変化をどのように評価したらよいであろうか。たしかに、イエ・ムラ社会の崩壊は閉塞的社会にある種の解放をもたらし、地域社会の緒伝統の枠組みから解放されたキリスト者にとっては生きやすい社会になったと言えるかもしれない。けれども、負の部分も我々は知っている。すべてが溶けてしまった社会である。残った各個体は「サブカルチャー」(溶解した宗教)や「拝金主義」(お金の価値が知られなくなってしまった社会)、「孤独」となった。言い過ぎだろうか。「俺は孤独な一匹狼だせ」などとキザなセリフが昔流行ったが、このようなセリフを言ってのける人は、本当のところは孤独ではない。なぜなら、そのキザなセリフを聞いてくれる人がいるからである。

実は、このような現象は日本だけではない。大先輩はヨーロッパである。マックス・ウェーバーの有名な本に「プロテスタンティズムと資本主義の精神」がある。

ウェバーの分析は、資本主義の原動力は宗教、とりわけカルビニズムである。古い世界(カトリック的コルプス・クリスティアヌム)が崩壊し、一人ひとりがイミグレ(巡礼する個)になった。それは実際にどういう宗教社会構造の変化をもたらしたか・・・。

図で説明(肯定しているわけではないけれど) (内容は、great chain of beingの一端として、この世とあの世の間をつなぐ煉獄を魔術的と断罪否定したことによって、個(イミグレ)が誕生し、個としてのみしか神と相対することができなくなった。)

個人化・個人主義・断絶・イミグレの誕生。個の誕生は素晴らしい。ただし、そのように生きられない、生きられなかった人々もいた。彼らはフリー・フローティングな存在(根無し草的存在)になった。皆が皆、個で、或いは個人主義で生きていけるわけではないのである。

私たちプロテスタント教会は、ローマ・カトリック教会の煉獄の教理を認めないであろう(私もこの教理には否定的)。けれども、現象的に見るならば、煉獄の否定は宗教的共同体の崩壊を結果的にもたらしたように見受けられる。中世ヨーロッパ的魔術・神話世界が崩壊した後、社会の世俗化が進み、「孤独な個」が多数出現したからである。煉獄はお母さんの懐のようなものであった。けれども母性は追放された。その結果、多くの人が力尽きて真のイミグレになりきれなかったのではないか。それだけ世俗化の波はきつかったのではないか。世俗化したヨーロッパは二つの世界大
戦も経験した。コミュニティー力(共同体としての結束と体力)が弱化した教会共同体は、社会に何を提供し得たのか・・・。「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」(箴言17:1節)という箴言の言葉を自信を持って宣言し得たのか。

日本もヨーロッパも何かが足りないのかはよくわかっている。そして、何を回復しなければならないのかもよくわかっている。けれども我が国の新聞を引き合いに出すならば、一方、ある新聞は先の軍国主義、戦争という過去のお化けにいつまでも囚われ、それを批判しても克服できないでいる。その結果、イデオロギー的で組合的理想像は示せても真の社会共同体の具体案は示せていない。孤独化解消へのメッセージがないのだ。他方、ある新聞は問題を認識し、人間の宗教性の大事を説き、現実的な国家像、家族のあり方の具体案を主張するが、溶解した宗教的諸要素への言及があ
いまいで、国家を、社会共同体を、イエ・ムラ社会を、家族を支える宗教的バックボーンとその具体的な基礎を提示できていない。

このような状況に思いを馳せるとき、本日の聖書の言葉を思い出す。

『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)

人は、社会の波を、歴史の流れを止められない、という失望感、絶望感に駆られているかもしれない。温暖化、少子化、モラルの低下、人が人の心を放棄する・・・問題を挙げればきりがない。「問題のない時代など存在したことはない」との歴史家たちの証言は真実であろう。けれども、現代社会が抱える問題と過去が抱えていた問題の決定的差異は、問題解決への処方箋を(誰も)示すことができない、ということなのである。

しかしなお、翻って聖書の使信に耳を傾けると、そこから、神は歴史の初めから、歴史を通じて、世代を超えて、人を背負ってきた、という力強い宣言が響いてくる。そして今この時も我々を背負って下さり、これからも背負い続けて下さる、という福音が迫ってくる。イザヤ書の言葉は直接的にはイスラエル人を指して語っているのであるが、イエスの十字架に光を当てて読むならば、それは人類へのメッセージであり、今を生きる日本人への救済、励ましメッセージでもある。ゆっくりと歴史を振り返りながら、人生を振り返りながら、生涯のそれぞれの時(モメント)を振り返り
ながら、聖書を味読したいと思う。

私たちはこの季節にみずから問い、また人から問われるある問いをもっている。2000年前のイエスという出来事と今を生きる私たちとの間に何の関係があるのかと。しかもイスラエルと日本、時間的ギャップのみならず、地理的にも乖離している。さて、どうであろうろう。今でこそ当たり前になってしまったこの問いは、実は、世俗化以降の世代間の断絶、縦の宗教的つながりの分断によってもたらされた賜物である、と私は思っている。「もののけ」の世界を生きていたかつての人類は、あるいは「もののけ」の世界がすぐ隣にあった時代を生きていた人間は、そのような愚問は問わなかった。なぜなら、自分が母の胎から出てきて、その母もおばあさんの胎から出てきたこと識っていたからである。周りの人もそのようにして生まれてきたことを自明のこととして識っていたのだ。のみならず、自然界のすべてに世紀を超えたそのような命の連鎖があり、歴史を貫く命のたぎりがそこに満ち満ちていることをかつての人間は知っていた。そこには聖書の神のような人格神が常に想定されていたわけではなかったかもしれない。けれども、それが、世紀を貫く「おたいせつ」であることは識っていたのである。

この人間存在の真実に目を留めるならば、人の実存は神あっての宗教的実存、人類共同体の中で初めて意味をなす社会的実存であることに開眼するであろう。そのとき、クリスマスは、個人化と孤独の結晶であるデパートの陳列棚から解き放たれ、クリスマスの秘儀はサブカルチャー的ファンタジーから解放されるであろう。そして、現代を生きる一人ひとりが、2000年前の出来事と今を生きる我々との繋がりをリアルに感じ、世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリストのご降誕を祝い、感謝できるようになると思うのである。

アーメン