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2010/7/18  「晴好雨奇の福音」 コリントの信徒への手紙II 1:1-7(船戸節子姉帰天を憶えて)

「晴好雨奇」――山水の景色が、晴れの日に素晴しいだけでなく、雨の日にも珍しい味わいを呈すること。晴れても雨でも景観が良いこと、を意味する言葉です。

先週の礼拝で、西澤さんが紹介して下さった船戸良隆牧師の言葉を聴きながら、この諺を噛みしめました。正直な人であれば、あの言葉を聞いて「うそつけ!」思うかもしれません。実際、それがキリストで生きるクリスチャンであれ、厳しい現実を突きつけられた時、私たちは「何でだ!」と思うものです。

先週の木曜日、めじろ台キリストの教会前牧師、船戸良隆さんの奥様、船戸節子さんがご逝去されました。先週の礼拝の中で皆で祈りましたね。あの週の木曜日に召されたのです。

船戸さんは今何を思われているでしょうか。人の一生は大変重いものですから、軽々に詮索すべきではありませんが、一言だけ発言することが許されるならば、晴好雨奇ならぬ雨奇晴好だと思うのです。パウロの言葉を借りれば――

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さる。…キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている。…あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。(第二コリント書1:1-7抜粋)(口語訳)

パウロはすごいことを言ったものです。「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さる。」 しかも、原典の単語の語源を眺めてみますと、「患難」には「すりつぶし」という意味が含畜されており、「慰め」には「励まし」の語気が含まれているのです。つまり、神は、すり鉢ですりつぶされた私の傷をなめて下さる、という次元で慰めの行動を停止せずに、その人が励まされるまで慰め続けるのです。

人はしょっちゅうすりつぶされるような存在です。威張っていた人がすりつぶされた、というニュースは毎日新聞をにぎわします。けれどもそれは威張っている人でなくとも経験することです。その経験にクリスチャン・非クリスチャンの違いはありません。下手にキリスト教に触れて、信仰心のテンションに日々一喜一憂するような人はある意味もっとしんどいでしょう。このような人は、自分は神の慰めにも値しない不信仰な存在である、と自分自身を決めつけてしまいがちですから。

けれども、パウロは、神はどんな時にも私たちを立ちあがらせて下さる神である、と宣言します。しかも、すりつぶしの中で経験した時に頂いた神の慰めは、それが本物である時、つまり「何となく格好良い証し」などではなく、車に踏みつぶされたヒキガエルの如き姿になったときに頂いた慰めであるのなら、それはその人が励まされるまで、再び立ち上がらせて頂くまでその運動を停止することはないと。

さらにパウロは言うのです。その受けた慰めが「神からのホンモノ」であるのなら、その慰めはいつか他の人にも伝染せずにはおらない! ちょっと社会経験を積んでいる先輩が「俺も同じことを経験したよ」「君も苦労したらそのうちわかる」というレベルとは全く次元の異なる慰めなのです。「俺の親も死んだよ。女房も死んだよ。旦那も死んだよ。子供も死んだよ。ま、その内消化できるさ。」 これで「そうか。俺はもう動じないぞ!」と思う人がいるでしょうか。

私たちが船戸良隆牧師から頂いたもの、節子夫人を通して頂いたもの。それは、徹底的にすりつぶしを経験させられた人が、そこで観た「恵み」です。そこで頂いた慰めです。船戸さんも私たちも「慰め」から「励まし」にポーンとそうは短時間でワープはできないでしょう。けれども、私たちは先取りの「励まし」を既に頂いてしまいました。疑問は疑問としてそこに残ったまま、私たちは船戸さんが受けた不動の恵みを共に頂いてしまったのです。ギリシアの現在完了形をギリシア人の頭のままぎこちなく日本語で言いなおすなら、「私たちはその励ましを既に頂いてしまっている。」 主の恵み既に完了せり!

【注】
本日お配りしました「第61回キリストの教会全国大会(神戸・舞子大会)」大会ニュース第五号(2010年7月18日発行)の岸本大樹牧師(旭基督教会)による巻頭言は今朝の奨励の内容とタイムリーにリンクしています。是非お読みください。