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2011/04/10  「『非日常と化した日常』に在って」 
哀歌 2:18-19a

先週はまた少し暖かくなり、御覧の通り教会と牧師館の庭もややカラフルになりました。高楽寺の枝垂れ桜も春を満喫していました。聖徳幼稚園でも、桜が咲き誇る中で入園式、進級式が執り行われ、春恒例の賑わいがそこにありました。その光景は春の日常です。

けれども、その日常は何となく違和感を抱えている……。本数を減らしながらも鉄道が運行され、旅客機が空を飛び、バスや車が走り、会社は企業活動を再開し、学生は新学期を迎え、新入社員も社会人の仲間入りをし、計画停電もとりあえず終了し、人々はまさに日常生活に戻りだしたのですが、その日常が何となく上滑りしている。なぜか……。私たちが置かれている日常が非日常の世界と化してしまったからです。甚大な被害をもたらした東日本大震災は今なお進行中の出来事であり、その規模が広範囲に及んでいることを私たちは知っているからです。範囲においても規模においても影響においても、非日常が日常を完全に上回ってしまったのです。

一進一退の攻防を続ける福島第一原発の事故処理、日々加えられる死亡者名、亡くなられた方の埋葬方法を巡る切実なやり取り、避難所生活の模様、自宅にいるが故に食糧難にあえいでいる方々のリポート、集団疎開の議論、震災孤児のケアを巡る議論、その他数え切れないほどの被災地のもろもろの窮状。復興の鎚音も鳴り響いていますが、4月8日午後8時の警視庁のまとめでは、死者12,787人、行方不明者14,991人、負傷者4,661人です。一昨日の余震でも400万世帯が停電し、4人の方が亡くなりました。震災以来、新聞に亡くなられた方の名前が掲載されるようになり、その数は新聞片面の約半分。しかも毎日、毎日、毎日、途切れることはありません。

新聞は私たちの「日常」を伝えるものではありませんか。その日常の現実がかくも過酷なものなのです。首都圏に住む私たちは確かに日常を取り戻しました。しかし、その日常が上滑りしてしまうのは、「常」なるもの、と私たちが信じてきたものが、限定された地、限定された時にしか存在していないことを嫌と言うほど知らしめられたからです。「常なるもの」という虚構(神話)」が木っ端みじんに破壊され、「常ならざるもの」の現実を徹底的に突きつけられたからです。ここに英字新聞 Daily Yomiuri(4月1日付)があります。(説教では新聞に掲載されている大きな写真をかざしながら内容を紹介した。記事と写真はインターネットで読む事ができます: http://www.yomiuri.co.jp/dy/national/T110331005873.htm)

私たちは震災後の二つの日曜日にわたって哀歌3章を読みました。哀歌の歌人たちは、エルサレムの町がバビロンによって蹂躙され、「神がその名を置く」と言われたエルサレム神殿が徹底的に破壊し尽くされるという「非常事態」に狼狽し、哀しみの歌を奏でたのです。神の民にとってはあってはならない、常ならざる出来事に語る言葉を失い呻吟したのです。今朝はその哀歌から2章の歌人の呻吟に耳を傾けたく思います。

おとめシオンの長老は皆、地に座して黙し
頭に灰をかぶり、粗布を身にまとう。エルサレムのおとめらは、頭を地につけている。
わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので
  わたしのはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。
幼子は母に言う
パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて
母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。
おとめエルサレムよ
あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。おとめシオンよ
あなたを何になぞらえて慰めよう。海のように深い痛手を負ったあなたを 
誰が癒せよう。
(哀歌2:10-13)


このような時にできること、それは洋の東西、古代現代の違いに関わりなく、同じです。涙を流すことです。信じるものがあればその者に向かって嘆くことです。哀歌の歌人たちにとってはイスラエルの神でした。我々から日常が失われた時、できることが他にありましょうか。

おとめシオンの城壁よ
主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。
休むことなくその瞳から涙を流せ。
立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て
水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ
あなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。
主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。
女がその胎の実を
育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が
   主の聖所で殺されているのです。
(哀歌2:18-20)


日本人は世界中の人々が感嘆した驚異的コミュニティ力で、この艱難を凌いでいます。個人の悲しみを脇に追いやり、共同体のためにベストを尽くしています。けれども、非日常が日常、という日が長く続けば緊張の糸も切れてくるでしょう。心身の健康も徐々に損なわれていくでしょう。そんな時にできることは、本音の部分では、涙を流すことだけではありませんか。いくら世界が称賛しても、誇りに思うのは余裕のある安全地帯の住人だけです。被災地で苦しんでいる方々に言わせれば、次から次へと押し寄せる現実を精一杯、肩を寄せ合い、ひたすらに凌いでいるだけだ、となりましょう。

しかしながら、あえて客観的に、世界が感嘆する一つの理由を挙げておきます。特に西ヨーロッパ諸国が驚きを隠さないある一つのこと。それは日本人の我慢強さや礼儀正しさ、不謹慎の概念というレベルのお話ではありません。より本質的な事柄――常ならぬ状況下にあっても被災者の方々が「ニヒリズム」には支配されない、ということです。

ニヒリズムは「神殺し後に起こる社会」(ニーチェ)と言っても良いと思いますが、そこには未来への希望はありません。未来や希望の源泉である神を殺してしまったからです(神を脇へ追いやった)。神を殺した社会は、希望も未来も減ったくれもない、虚無の世界です(禅的「無」に非ず)。日本でも特に戦後、都市部だけではなく地方においても、伝統的社会の溶解が進み、一種の神殺しが行われてきました。先祖祭儀に基礎づけられた横の繋がり(共同体)が、若者の都市部流失によっては機能しなくなって久しいのです。宗教共同体のメルトダウンと言っても過言ではないでしょう。

けれども、崩壊したのは戦後社会で刷り込まれた表面的「洋才」だけでした。言葉が過ぎた石原慎太郎東京都知事の真意を代弁するわけではありませんが、この震災で日本人の垢が削り取られ、「和魂」が本来の姿をヴィヴィッドに顕したのです。我々の和魂には先祖代々受け継がれてきた「おたいせつ」が今なお息づき、ヨーロッパ的ニヒリズムが入り込む余地などありません。

もうしばらくすれば、この震災の事例を挙げて、日本人の集団性や国家安寧に基礎づけられた宗教観、人生観に関する論考が何本も発表されるでしょう。しかし、私たちキリストの福音に生きる者は、この朝、イザヤの福音宣言に耳を傾け、日本人が先祖代々受け継いできた「おたいせつ」の源泉がどなたであるのかを再確認し、私たちへの励ましの言葉、亡くなられた方々の魂の平安を願い求める叫び、被災者への慰めの祈りと致しましょう。そして、日常も非日常も凌駕する、否すでに凌駕した主イエスの十字架と復活を憶えましょう。このイザヤ書の福音宣言は、他ならぬ主イエスにおいて成就したのですから。

主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し
古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。…
彼らの一族は国々に知られ
子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう
これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
わたしは主によって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。
大地が草の芽を萌えいでさせ
園が蒔かれた種を芽生えさせるように
主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
(イザヤ書61:1-11抜粋)