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2011/08/22  「意味」の世界にいざなう「神の言」 イザヤ書 40:6-8

 8月を平和月間、或いは原爆投下日に一番近い日曜日(今年であれば、先週の日曜日)を平和主日として記念する教会がたくさんあります。私たちめじろ台教会では、今のところ、そのような名前をオフィシャルに冠して礼拝を捧げたことはありませんが、礼拝開始の祈りの文言の中に、また、互いに取り交わす会話の端々に、自然と先の大戦への言及があり、私たちにとりましてもやはり、鎮魂の月であり、平和を祈る時であります。しかも、東日本大震災を経験した年の敗戦記念の月であり、事件の質は原爆とは完全に異なりますが、現在も進行中の福島第一原発の事故を抱えながらの8月です。

私は今月の8日に、渋谷駅の構内に展示されている壁画、岡本太郎作『明日の神話』を眺めました。縦5.5メートル、横30メートルの巨大壁画です。もっとも、たまたまそこを通りかかった、と言うだけで、あの絵を鑑賞しに行ったわけではありません。京王線から地下鉄に乗り継ぐ時や、青山方面出るときには必ずと言って良いほど通る場所なのです。あの作品を立ち止まってまじまじと眺めたのは、初めて遭遇した時だけでしょう。実は、今回も立ち止まって壁画を鑑賞したわけではなく、いつもと同じように絵の脇を通り過ぎただけなのですが、この時ばかりは今までとはまったく違う印象で、岡本太郎さんの『太陽の神話』絵に目をやり、通り過ぎた後も絵のイメージの余韻を引きずりました。今年の5月にお茶の間を賑わした壁画への悪戯、と言いますか書き足し事件(福島第一原子力発電所の事故イメージを投影したもの)の影響が大きかったのは言うまでもありませんが、社会全体が醸し出す空気が『明日の神話』の放つ空気と共鳴し、巨大壁画からほとばしる和音が、私の意識を絵に向けさせたのでした。[1]

 さて、先の大戦――アジア・太平洋戦争の犠牲者を追悼する、政府主催の全国戦没者追悼式をはじめ、大小さまざまな平和集会が8月15日に行われました。また、敗戦記念日に先だって、8月6日に広島、8月9日に長崎で、それぞれ原爆の犠牲者を追悼する記念式典が挙行されました。毎年行われる行事ではありますが、今の日本があるのは、戦争で多大な犠牲を払い、自らをしてその一里塚となられた先達たちに負っていることを、毎年のごとく記念することの大切さを、今年はとりわけ重く受け止めました。巷で騒がれるエネルギー問題の深層には、我が国が置かれている資源力の問題があるのですから。私たちが享受している平和は、どういう要素があったにせよ、根本的には、資源問題ゆえに戦地に散った無数の命の犠牲の上に成り立っているのです。

人間は文明を築き、その生活を向上させてきました。原子力発電も文明の産物であり、私たちの生活を物質的にも精神的にも向上させてきました。精神的と言いますのは、夜でも煌々と灯すことのできる大量電力を獲得したことによって、夜の空間にも精神活動が行えるようになった、ということです。夜でも電気を点けて礼拝ができますでしょう。けれども、日本の被爆体験にしても、福島原子力発電所の事故にしても、それが私たちに証示していることは「人間の栄華とその限界」です[2](原爆を用いた国家間の戦争の是非や原子力発電への価値判断に言及しているのではありませんので、誤解のない様にお願い致します)。

古代イスラエルにも、当時の諸帝国が驚嘆するほどの栄華を極めた王がいました。ソロモン王です。けれども、そのソロモン王を引き合いに出して、イエスは福音書でこう言うのです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイによる福音書 6:29)。極端な比喩です。けれども、イエスの意表を突くその極端な発言ゆえに、人間が神から創られた存在としての身の程をわきまえずに立ち振舞う時、主イエスご自身も幾度も口ずさんだであろうイザヤの言葉が耳の奥で響くのです。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたからだ。」 イザヤは草花を人間に例えてこのように言ったのでした。

イザヤの言葉の背景には、シロッコという砂漠からの東風が引き起こす自然現象のイメージが横たわっています。けれども、イザヤにとっては砂漠から吹きつける熱風は、砂漠の神、ヤハヴェ」からの霊風に他ならなかったのです。詩編にもいくつかこの東風を神の風、神の息[3]になぞらえる箇所がありますように、古代イスラエスの民の世界観では、この自然現象は、人の栄光を一瞬の内に吹き飛ばしてしまう恐ろしい神の力だったからです。より正確に言うならば、創られた者としての己が身を識る者は、理神論[4]には決して陥らず、自分という小さな存在が、世界の中、大宇宙の中にあること、そして、神はその米粒ほどの小さな存在をじっと凝視しておられること、手を伸べて関わりを持たれることを肺腑から告白するのです。

その真実を告白するのに、古代人と現代人の違いはありません。なぜなら、現代人が自然現象を科学的に分析し得ても、自然現象が引き起こす出来事を私たちは人生の物語の文脈で捉えるからです。その出来事が斯かる人の人生に積極的であれ消極的であれ、何らかの「意味」を持つからです。地震に巻き込まれれば、「あ、プレートが潜り込んだ」と思う前に「恐ろしい」と思うでしょうし、深刻な被害に遭えば、胸を叩いて苦しみの呻き声をあげるでしょう。地球誕生以来地殻は動いているのだから、今回の地震は起こるべくして起こっただけだ。たまたまこのタイミングで起き、そこに人がいただけのお話しです――などと割り切れるものではありません。

原爆の話に戻りますが、あの出来事は科学的議論では決して解消されない「意味の世界」の出来事です。人の栄華とその破壊の出来事です。神ならぬ人が起こした爆風でしたが[5]、宗教的意味の世界へと我々を放り込んだのでした。

重要なのは……その宗教的意味の世界、人生の意味の世界で眼を開けた時、そこでそよいでいる風(或いは吹き荒れている風)、そこに充満している神の力強い霊と息に自己を開くことです。風を感じ、息を深く吸い込むことです。そのとき、神の無限の世界の中で自己の有限を識るはずです。「私は『一本の道』であり、『命』であり『真理』である。私を信じる者は(私に信頼する者は)、死んでも生きる」というイエスの言葉が耳の奥から響いてくるはずです。

神の力は、イザヤ書に聴くまでもなく、恐ろしい力です。けれども、その力(ディナミス)は、人間の罪、自己の罪――暗い部分、生きながら存在を根底から腐らせていく何か――をも吹き飛ばすのです。吹き飛ばしてしまうのです。その内容は、主イエスの十字架と復活です!

 イザヤの言葉の後半を見てみましょう。「私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(永遠に変わることはない)。人の世のはかなさ、人が持つ限界、有限性との対比です。神の言葉、それも、「わたしたちの」神の言葉は永遠に変わらないというのです。「君、この前こう言ったじゃない」、という会話が私たちの中で時折取り交わされますが、イザヤは言うのです。神の言葉(ダブル・エロヒム=ロゴス)は決して廃れない。神のお約束は昨日も今日もそして明日も決して変わらない。私たちが目を見張るのは、イザヤが受け継いだ神のこの約束は、己が罪ゆえにバビロンによって滅ぼされ、捕囚としてバビロンに連れていかれるイスラエルの民に与えられている点です。最悪の状態の中、決して希望など見いだせないような中で、神の赦しの約束、恵みの約束が、一方的に発せられたのです。その核にあるメッセージは「人生は無常ではない!」 無即有であり、何もないところから有を生み出す(ex nihiro)、ということです。思えば、神ご自身もモーセに「私は存在者(在って在る者)だ」と自己開示されました。

 さて、その神の言葉ですが、具体的には「聖書」です。今日はこのように一冊にまとめられています。けれども、文字の集合体が聖書なのではありません。それだけであれば単なる印刷物です。けれども、真実は、神の言葉がこの中に隠されている。音楽みたいなものです。私たちが魂を全開にしてこの古き善き書物に接するとき、一冊という広がりをもった「世界」が目の前に開かれるのです。それが神の言葉です。もちろん、聖書に書いてあるのですが、それがそれ以上のものとして自己の存在に迫ってくる。イエスはいみじくもこのように言いました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉(リーマ)によって生きる。」 また、エゼキエル書にはこのような言葉があります。「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(エゼキエル書3:1-3)。この巻物は「神の言葉」です。

 人が築いた尊い文明も、人の地位も名誉も、いずれは土に帰ります。それはそれで良いのです。ただ、その現実に気付いた人は、イザヤの言葉に心を留めた。

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちに神の言葉はとこしえに立つ。

 広島、長崎の原爆の出来事も、福島第一原子力発電所の事故も、この意味の世界に入滅昇華するとき、火の鳥の如く、新しい時代に、新しいメッセージを放つでしょう。


[1] 『明日の神話』が描かれたのは、『太陽の塔』の制作と同時期の、1968年から1969年。メキシコの実業家から「新築ホテルのロビーを飾るための壁画を描いてほしい」という依頼を受けた岡本太郎さんが、現地に何度も足を運んで完成させました。しかし、依頼主の経営状況が悪化したことでホテルは未完成のまま放置されることになり、『明日の神話』もロビーから取り外されて行方不明になってしまい、永らく行方がわからなくなっていたのです。ところが、2003年9月、メキシコシティ郊外の資材置き場で、『明日の神話』が発見されました。『明日の神話』を描きあげてからの30余年、絵は少なからず損傷を受けていましたので、当時、岡本太郎記念館館長だった岡本敏子さんが『明日の神話』再生プロジェクトを発足させ、壁画を日本へ運び、修復しました。そして、2008年11月17日、「『明日の神話』招致プロジェクト実行委」 の働きかけにより、岡本太郎さんの生活と創作の地、青山(渋谷)に、この巨大壁画が恒久的に展示されることになりました(http://www.1101.com/asunoshinwa/index.html も参照)。
[2] 私は自然科学にはまったくの素人ですし、安易に原子力発電を否定する立場には立っていません。私の中には代案がなく、無責任な評論家的態度は取りたくないからです。
[3] ヘブライ語の「ルーアー」という言葉には、ギリシア語の「プネヴマ」同様、「風」に他に「息」「霊」という意味が含畜されている。
[4] 「理神論」(deism)とは、神を創造者以上の人格的存在とは認めず、啓示には消極的な神学思想。当然のことながら、神の歴史や地上への関与に対しては懐疑的で、奇跡などによる神の介入は認めない。この思想の根底には、人間理性が優越性を獲得した18世紀のヨーロッパ啓蒙思想が横たわっている。
[5] 私が原爆の話をする時、政治的には河野洋平元衆議院議長のように自虐的に語ってはおりません。あの出来事の責めは日本国ではなく、国際法で禁止されている民間人への無差別殺人という戦争犯罪を犯した米国が負うべきものでる、というのが私の立場です。「過ちは犯しません」という広島の原爆犠牲者追悼碑に刻まれている言葉は、「過ちは犯させません」と書き換えるべきであると、個人的には考えています。