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2011/08/22  「恐れるな、ただ信ぜよ:死への挑戦状」 ――少女の蘇生物語に込められた福音
―― マルコによる福音書5:21-43

 :21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。…:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

イントロ

 :21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

 向こう岸がどのあたりであったのかは分かりません。ガリラヤ湖半のどこかの村落にイエス一行は上陸された、といういつもながらの光景が描かれているだけです(物語の構成も、長血の女のエピソードを間に挟むマルコ特有のサンドイッチ型)。その時、会堂長の一人、ヤイロという人が狼狽しながらイエスの元にひれ伏します。

I.                  主よ憐れみたまえ

 はたしてイエスはヤイロの要請を受けて、彼の後に従って弟子たちと共に、病床に伏している彼の娘のところに共に向かいます。会堂長のリクエストに答えて彼女に触れる(手当)ためです。

:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

 ところで、私たちは聖書の読者は、物語の本筋に入る前に、ヤイロという男に冠されたタイトルに興味を惹かれます。口語訳では「会堂司」、新改訳では「会堂管理者」と翻訳されている「会堂長」(アルヒシナゴゴス)[1]とは、どのような立場にある人だったのでしょうか。資料によりますと、三人からなる会堂幹事会に属する指導者でした。いわばめじろ台教会執事会の代表役員のポジションから牧師の任を外したような立場です。それだけではありません。ものの本によりますと、会堂長は人望の厚い人であったともあります[2]。神殿の職業宗教人とは違い、会堂に属するメンバーたちによって推挙されたリーダーだったからでしょう[3]。そのことを福音書記者が意識してかどうかは定かではありませんが、マルコは22節で、ヤイロの紹介に敢えて「〜という名の」と短い一句を挿入しています。ヤイロという名前には「彼は照らすであろう」「彼は起こすであろう」[4]という意味がありました。天使がおとめマリアに語った「その名はイエス」と同じタッチの語りです[5]。

 いずれにしましても、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)のリーダーが、いわくつきのラビ、イエスに懇願したということを明記しておきましょう。彼には何の保証もない賭けでした。身分やプライドをかなぐり捨てた「見えざるもの」への信仰によるダイヴィングだったのです。

II.                  恐れるな、唯信ぜよ

 さて、僅かな希望を抱いてイエスと娘のもとに向かっていた会堂長ヤイロに、有無を言わさぬ残酷な現実が突き付けられました。

:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

 私たち読者は、長血の女が現れたせいで……とヤイロが複雑な思いになったかな、と想像するかもしれませんが、このエピソードはマルコ特有のサンドイッチ型の伝承ですから、長血の女がイエスの足止めをしたためヤイロの家へのイエス到着が遅れた、と読む必要はありません。私たちが注目したいのは、このサンドイッチ型の伝承が、「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエスの「信頼」への誘いの言葉を引き立たたせ、強調している点です。
  さて、娘が息を引き取ったという報告を受けた会堂長は、常識的には「先生、もう結構です」と言うところを、イエスへの信頼で応答します。イエスを案内して歩いていたヤイロは、気がつけば、イエスに神の道を案内されながら、死んだ娘の所に向かうのです。「恐れるな」という主の一言に信頼の心を支えられ、信頼し続けるように励まされながら、一歩一歩娘のところに向かって歩くのです。他のものではない、私への信頼だけだよ、と背中を押されながら。
  そもそも会堂長の家からもたらされた訃報に対してイエスがとった態度に、希望の福音は既に宣言されていました
。「イエスはその話をそばで聞いて…」(オー デ イイスース パラクーサス トン ロゴン ラルーメノン)。日本聖書協会訳でも直訳調の古い口語訳はこのように訳しています。「イエスはその話している言葉を聞き流して…」。実は「パラクオ」には「いい加減に聞く」「注意しないで聞く」「聞き流す」という意味があります[6]。 英訳ではTEVが原文の意味をくみ取りこのように訳しました。“Jesus paid no attention to what they said, but told him, "Don't be afraid, only believe.” 確かに、「パラクオ」は「パラ」と「アクオ」から成る語ですから、「そばで聞く」と読めなくもないのですが(新共同訳、新改訳)、「聞き流す」姿に主イエスの静かで熱い姿を見る気がします。
この場面をあるドイツの神学者はこのようにコメントしています。「信仰とは単なる知的同意ではなく、神を勘定に入れること、しかもその御業を具体的にイエスにおいて期待し、新しい現実に直面してもなおくじけない、ということである。」[7] そのような勇気を与えるべく、イエスは悪魔の誘惑のごとき「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という言葉を無視したのです。

III.                  死への挑戦状

:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった[8]。:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。

 かくして、イエス一行は会堂長の家に到着しました。するとそこには大声で泣きわめいて、しかも騒いでいる人たちがいます。彼らの中には当然、少女の母親や身内の人間もいたでしょうが、この混沌とした悲しみの状況は主に、彼らによって雇われた「泣き女」たちによって演出されたものでした。死者を悼むパレスチナの習慣にはこのようなものがあったのです。ヨセフスの『ユダヤ戦記』にも「イスラエルにおけるもっとも貧しい人でも、葬儀には少なくとも二人の笛吹きと一人のなき女を雇う」とあります。マタイ福音書でイエスが引用した当時の子供たちが歌っていた歌は、この事実を反映しているのでしょう。「笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。」(マタイ11:17)
このような悲しみに暮れる人々を目の当たりにし、イエスは死への挑戦状を叩きつけます。「なぜ、騒ぐ。この子は死んだのではなく、眠っているだけだ。」 イエスはこの一言に、人の眼が見る現実と神の眼が見る現実の違いを宣言するのです。それを「死である」と断定するのは人ではなく神であり、また「生である」と断定するのも神である、と。少女の死は明白でした。けれども、それは人の目に明白であったに過ぎなかったのです。イエスは福音の事初めで開口一番こう言われました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ!」 来るべき御国は、実は、この世にもう到来している天国(神のご支配)と連続なのだ。将来私たちが受ける永遠の命の雛型も、もう既にここに生み出されている。死と生……お前たちは私の中にどちらを見るのか。マルコは福音書の読者たちに、ヤイロが叩きつけられた「死への挑戦状」という形で示された「生への誘い」を、同じように叩きつけます。君たちはイエスの中にどちらを見るのか。
  イエスの暴言を聞き、聴衆は呆れかえります。埋葬の儀式は既に始められているのですから。けれども、イエスはそんな聴衆を横目に少女の手を握り、「起きよ!」と力強く「生」を宣言されました。

:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスの言われた「タリタ・クム」は呪文ではありません。奇跡物語の中には外国語や外国語の定式が出てくる頻度は多く、それが外国語であるが故の強烈なインパクトやマジカルな印象を非アラム語圏の読者に与えはしたでしょう。けれども、マルコの意図はいたって単純です。マルコにも伝えられた印象深いイエスの言葉(伝承)の紹介と、アラム語を解さない読者のための補足説明というだけのことなのです。しかしながら、イエスの「タリタ・クム」は、少女の父親やその周りにいる人々だけではなく、マルコ福音書の読者をも、それが引き起こした「事」(コト)へと誘いました。その「事」とは本当の意味でのイエスとの出会いです。イエスの少女蘇生に対する驚愕しただけでは終わらない、イエスと言う経験です。もっとも、はたしてどれだけの人がイエスの本質を看取したか、は疑問が残ります。大半はイエスとの人格的出会いを経験せずに、単なるびっくりで終わったのかもしれません。けれども、娘の父親はどうだったでしょうか。父親は娘の死を知らされる前の時点で、イエスへの信頼を表明しました。また、娘の死を知らされた後も、主の「恐れるな、ただ信ぜよ」との言葉にそのまま従いました。心の中ではもしかしたら、信頼と懐疑が渦巻いていたかもしれません。そんな娘の父親を支えたものはただ一つ、イエスとの人格的出会い、イエスとの無言の対話だったのだと思います。であればこそ、彼はイエスとの出会いの始めで信頼を表明した以外、このエピソードを通じてイエスの語りかけには一貫して無言を貫いたのでしょう。娘が蘇って時も無言、蘇った娘が食事をする光景を眺める時も無言、イエスの「誰にも話すな」という言葉にも無言です。この無言の対話が、主イエスの奇跡は奇跡のための奇跡にあらず、神と人との絆の回復の福音、人間の存在回復の福音であった!ことを証示しているように、私には感ぜられます。

結び

この物語は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。少女蘇生のエピソードだけではなく、次週学ぶ予定の長血の女性のエピソードも含めて考えてみたいのです。両者とも必死でした。人間の力の限界を知った人たちがその向こう側へと指向する必死さです。その出発点は絶望的状態でした。 
  両者のエピソードには12という数字が出てきます。「12」はイスラエル12部族の数、荒野で渇くイスラエルの民に与えられたエリムの12の泉など、旧約聖書にごまんと出てきます。エステル記ではこのような面白い用い方もされています。「十二か月の美容の期間が終わると、娘たちは順番にクセルクセス王のもとに召されることになった(2:12b)。新約聖書も負けてはいません。12人使徒の任命、五千人給食時の余ったパン屑は12籠、(ゲッセマネの園でイエスを捕えた兵士にペトロが襲いかかった時、イエスがペトロに言われた言葉)「わたしがお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(26:53)、(黙示録の言葉)十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた(21:21)。…川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す(22:2)。そして、次回皆で読む12年間の長血患いの女性の物語、今日共に読んだ12歳の少女の物語…。聖書の背景を知らない方には、「12歳だったからである」というマルコのナレーションはとりわけ謎めいて響くでしょう。
  実は、この12という数字はユダヤ・イスラエル思想の中で完全を現わす数でした。このシンボリックな数字が放つメッセージは、神の時はいつもベスト、神が行動される時はいつも完全であるということです。「神のなされることは時にかなっていつも美しい」とコヘレトは言いました。けれども、その時を知るには、神への信仰が、主イエスへの信頼が必要だ、とマルコは言います。イエスへの信頼がなければ、新生の命、復活の命は生起しない、希望は生成しないのです。主の行われる奇跡も、神の力を持つイエスに対する信頼を通して引き起こされるのですから[9]
  少女の父親が経験したことは、それ故に、神の憐れみ、約束に信頼し続けるということでした。神が少女の存在を回復し、親子の生の関係を贖ってくださったことだったのです。


[1] 「長」意味する「アルヒ」とユダヤ人礼拝堂「スィナゴギ」の合成語。英語訳聖書の多くではa ruler of the synagogueと訳されています。
[2] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』156.
[3] ルカ福音書では8章41と49節で、この二つの称号が複数形、単数形と混同して用いられており、使徒言行録13章15節では、同一の会堂に複数の会堂長が存在することを示している(『同掲書』)。
[4] E.シュヴァイツァー『同掲書』156.
[5] E.シュヴァイツァーは、「[この伝承が]まだヘブライ人の間で語り伝えられていた段階では、この名は一つの約束として(ここに挿入された?)のかもしれない」とコメントしている(『同掲書』156)。
[6] 織田昭『新約聖書ギリシア語小事典』該当箇所参照。なお、田川建三は該当箇所を「はたで聞いて」と解することを支持し(田川建三『新約聖書・訳と註 マルコ福音書』[作品社:2008]、227)、佐藤研は「聞き流して」を支持(佐藤研訳『新約聖書I マルコによる福音書・マタイによる福音書』(岩波書店:1995)。
[7] E. シュヴァイツァー『同掲書』158.
[8] この三人に限定する形式は古い伝承に属すると思われる。メシアの秘密に関するもの、と思われていた資料か。
[9] 川島貞雄『マルコによる福音書』教文館、112.