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2011/09/04  「平和のうちに行け」 ――長血の女性による福音―― マルコによる福音書5:25-34

:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

イントロ

 先週は一つにくくられている物語の中から、「サンドイッチ型伝承」の前後の部分、会堂長の娘蘇生のエピソードに焦点を絞って学びました。本日は、サンドイッチの中身の部分、その間に挿入されている長血の女性のエピソードに込められた福音に聞きたいと思います。


I.                  12年間の苦しみ

 「重篤な病状にある自分の娘に触れてほしい」、「このお方が触れてくれれば、娘は癒される」との信頼(信仰)をもってイエスの元に馳せ参じた会堂長の要請に従って、主は彼の家へ向かうのですが、マルコはその途中にひとつのエピソードを用意します。

:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。

12年間も出血の止まらない女性との遭遇です。口語訳や新改訳では「長血」、ハリストス正教会の文語訳では「血漏」、などと訳していますが、直訳しますと「血の流出」です。フランシスコ会訳が「出血『病』」(『 』は筆者による付記)と補足してくれているように、何らかの婦人病をこの人は患っていたのでしょう。後代の伝承は、この女性にヴェロニカという名前を与え、エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)の女王にしてしまいましたが、ヴェロニカならぬ出血の女性が置かれていた現実は、宮廷生活のそれとはかけ離れた、極めて残酷で痛ましいものでした。彼女は12年もの間、止むことのない出血の病に苦しめられていたにも拘わらず、その間治癒を求めて訪ねた医者は皆ことごとくでたらめ。病は快方に向かうどころかますます悪くなり、結局お金だけ巻き上げられただけだった、と……。彼女が訪ねた医者の中には、日本語の「藪医者」の語源に当たるような「野巫医者」(呪術で治療する田舎の医者)もいたかもしれません。そうであれば、彼女が頼りにした「人間のあらゆる手段」が無効に終わったというだけではなく、「宗教的手段」も役に立たなかったことになります。それが彼女に意味したところは――人からの閑却、神からの放擲に他なりません。
  けだし彼女はひどく苦しめられました。12年もの間――シンボリックな意味においても文字通りの意味においても――希望を見いだせず、ひたすら医者を求めてさ迷い歩いたのです。出血に伴う鈍痛を抱えながら癒しを求めて医者から医者へと渡り歩いたのです。しかも、彼女が抱えていた痛みは肉体の痛みだけではありませんでした。肉体の痛みだけではなかったのです。彼女の出血の病は、出血の痛みは、彼女の心を、尊厳を、人間存在をとことん攻撃し、痛めつけて、脅かしていたのでした。レビ記15章の規定を思い出して下さい。

もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。(レビ記15:25-27)

この規定が彼女に何を意味していたか…。言わずもがなです。彼女は12年間、普通の日常生活を送ることができませんでした。律法の規定が、「お前は不浄だ!」と12年間ものあいだ毎日毎日宣言し続け、周囲も「不浄」「罪人」というレッテルをこの女性に張り付け、彼女の存在と社会生活を規定し、制約し、拘束し、阻害したのでした。他の健康な女性たちのように、「清浄」を前提に語られる一過的「不浄」を望むべくもない彼女の病を形容する12という数字がどれほど長く、重いものであったか。どれほど苛酷で、孤独であったか。彼女はユダヤ社会の宗教メタファによって、完璧に不浄にされ、徹底的に孤独に追いやられ、完全に神の恵みの外に放逐されていたのです!


II.                   こっそりと・・・

:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

 出血の病を抱えるこの女性は、自分の「穢れ」を隠して、主イエスに近づきます。律法の規定に拘束されていますから、しかも、12年間コミュニティとの接触を絶って生きてきましたから、ドキドキしながら群衆の中に紛れ込んだのでしょう。イエスに近づく以前に、彼女にとって第一の難関となったのは社会への復帰であったはずですから。彼女はレビ記15章がどのような言葉で結ばれているか知っていました。

あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい(:31)。

「死」の種とされてしまっていた彼女の恐怖は如何ばかりであったか!
  けれども、彼女は「見えざるもの」へ賭けるのです。何の保証もない世界へ、自らの身を投げ出すのです。ただイエスへの信頼だけが頼りでした。そして、彼女はイエスの服に触ります。藁にもすがる思い、でではなく、「このお方に触れれば癒して頂ける」という静かながら積極的な思いでもってです。「癒して頂きたい」という祈りはイコール「救われたい」という祈りでした。サンフランシスコ会訳は「救われるに違いない」と訳していますが、ここで使われているギリシア語の動詞はなるほど、肉体的「癒し」の意味で使われる「セラペヴォ」(セラピーの語源) ではありません。「救い」を意味する「ソゾー」の未来形「ソシソメ」なのです。つまり、「私は救われるであろう」という主イエスへの信仰告白だったのです。ユダヤ社会において「病からの解放」は即「罪の赦し」を意味していました。そして、「罪の赦し」は即「存在の回復」だったのです。

 さて、この女性がイエスの衣に触れると、主イエスの体から力が流れ出て、たちどころに病が癒えます。

:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

一瞬のうちにそれが起こりました(アオリスト)[1]。彼女はどれほどの開放感を得たか。けれども、主イエスは彼女に病の治癒を喜ぶ暇も与えずに、間髪いれずに叫ばれます。

:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 :32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。

 大変ユニークな記述です。そして、多少難解な個所でもあります[2]。マタイ福音書の平行個所にはこの部分がすっぽりなく、マルコ福音書の他、ルカ福音書の平行個所だけがこのエピソードを記しています。

 通常イエスが奇跡を行う場合、「私は意志する」「私の心だ」等の言葉を伴って、それが主イエスの主体的行為であることがはっきりと示されるのですが、この個所では、あたかもイエスの意思とはまるで関係ないように、神の業が行われます。主も長血の女性が自分の衣を触れ、自分の内から力が出て行くのを感じて、始めてこの女性の存在を気付く、という受け身ぶりです。主イエスの「意思」とは無関係に、父なる神のご意志で、イエスの中にある力を発動することなどあるのでしょうか。それとも、すべてはイエスの微笑ましい演技なのでしょうか。手持ちの聖書解釈者たちの注解を見ますと、普段はひねったことや細かなことを言う人たちも「降参」と言わんばかりに、額面通り「父なる神による、『御子抜きの』、けれども『御子』の中にある力の発動における奇跡」と受け取っています[3]。私などは、すべてをご存じの主が、おどおどしながら背後に近寄ってくる女性の存在を敏感に感じて、彼女の信頼に癒しで答えた。そして、これを単なる奇跡物語で終わらせないために、女性に主イエスへの信頼を言葉において告白させ、イエスも癒しの宣言(罪の赦しの宣言)を群衆皆が聞こえるようになした、と主の笑顔を想像しながら読むのですが。
  決定的なことは分かりません。けれども、奇跡行為の主体が父か子かはともかくとして、御子イエスの中にある力が長血の女性を癒したこと、しかも、心理学的にだけではなく、哲学的にだけでもなく、身体的に、つまり全人的に、主イエスの力が彼女に新しい命を吹きいれたことに私たちは注目します。あたかも百匹の羊の中の失われた一匹を探すがごとく、それまで社会から徹底的に疎外されていた一人の女性を、大勢の群衆の中から、見つかるまで、見いだすまで、瞳の奥でしっかりと捉えるまで、とことん探しだし、ぶるぶる怯えるこの人に平和を宣言されたマルコが描くイエスの福音に衆目するのです[4]。
  弟子たちの「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」という驚きの問いかけは、「イエスによる福音」を映し出す鏡でした。これこそ、父が子と共におり、子を通して父が宣言して下さった「インマヌエル」(神我と共にあり)の真実に他ならなかったのです。


III.                  シャローム

:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 《イパギ イス イリーニン》 “Go in peace.” マルコはギリシア語に置き換えて「イリーニ」と記しましたが、主イエスはヘブライ語で「シャローム」と言われたのでしょう。「シャローム」は、単なる「平和」や「平安」を意味する言葉ではありません。「神との原型回復の平和」「神との調和のある関係」を指し言葉です。しかも、どんな状態にあっても決して変わることのない「客観的状態」です。
  「人間のコンディションに左右されない不動の平和などあるのか?」 私たちの内なる声は、そんな呻き声を上げるでしょうか。その答えは「結び」に託しましょう。


結び

 出血の病を患っていたこの女性がどれだけ主イエスを理解したか。人格的出会いを経験したか。それとも、結局は病気癒しのパフォーマーだけで終わったのか。答えは明快です。彼女は「癒してほしい」という内なる呻きを「救いわれたい」という言葉で紡ぎました。
  その信仰告白で救われた彼女は、その後も主イエスという経験、そのお方による存在回復(存在の贖い)の生き証人として生きていったでしょう。たといヴェロニカではなかったとしても、主イエスがこの女性を必死に探し、出会われ、見つめ、手を伸ばして触れてくださった経験は、彼女の口を通して、エデッサを超えて全世界に語り継がれたはずです。彼女の証しは日本語にも成って、ここにあるのですから。けだし「長血の女性による福音」は広大な空間と二千年の時を超えて、「神からの不動の平和」の実在を証示し続けています。

「平和の内に教会を去り」ながらも、平和の内に実生活の中に戻ることが実に困難な私たちの日常において、主イエスの長血の女性への励ましと慰めを、この朝今一度憶えたく思います。増えもしなければ減りもしない十全な平和を、イエスの十字架と復活で成し遂げられた私たちへの平安を。


[1] 「クスィレノ」(枯れる、干からびる)のアオリスト(点的アスペクト)の受動態「クスィランシ」(枯れた、干からびた)
[2] やはりややこしい箇所なのか、細かな注釈に定評のある田川建三訳もこの個所を飛ばしている(田川建三『新約聖書・訳と註 マルコ福音書』[作品社:2008])。
[3] 例えば、エズラ・グールドなど(Ezra P. Gould. The International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel of Mark [Edinburg: T. & T. Clark], 98)。
[4] 古代人の神話的世界観では、この種の行為、あるいは現象は、部族神対部族神の戦いであったり、神対悪魔の戦いであったり、神の闇夜への戦いであったり、様々に理解されていたのですが――実際「力が流れ出て」など、魔術的と言いますか非常にプリミティブな描写がされています――興味深いのは、イエスはひたすらに、長血の女性の「信頼」(信仰)だけを、この出来事の中に見るのです。また、福音書はその信頼に答えるイエスの姿を克明に追うのです。