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2011/09/18  「果報は寝て待て」 ――種の中身の福音―― マルコによる福音書4:26-34

:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 :30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 :33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


イントロ

 まだまだ暑い日が続いていますが、草木を見れば「収穫をして!」と言わんばかりに秋の味覚が実っています。本日の個所は主イエスが、四章の頭から繰り返し語られた、一連の「種の譬話シリーズ」の締めくくり。収穫の秋にもってこいの話です。

I.                   種の神秘

 四章の冒頭で、イエスは「湖のほとりで教え始められた」とマルコは報告します。ガリラヤ湖の畔です。周囲には草花が咲き乱れ、オリーブの木やからし種の木が生い茂っていたのでしょう。枝の間からは鳥のさえずりが聞こえてきたのかもしれません。このような牧歌的空気の中で、イエスは種の譬話の締めくくりとして、「神の国(神のご支配)とはこのようなものである」と群衆に語り始められました。

:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない[1]。:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 イエスは「種はどうして芽を出して成長するのか、どうしてそうなるのか人は知らない」と言われましたが、現代の私たちは植物の成長プロセスを自然科学的に知っています。イエスの譬の題材、種子植物に限定して言えば、種の発芽は、種の吸水に始まり、細胞代謝や生合成の複雑な生化学反応の活性化を伴って、幼根(胚)が種皮を突き破って起こる、云々。古代人がこのような自然科学的マインドや自然科学的知識を持っていなかっただけであって、二千年前も種はこのように発芽し、生育したのでした。
けれども、私たち現代人も二千年前のパレスチナの住人と同じ驚きを共有することができますでしょう。庭や植木鉢に播いた種が芽吹き、可愛い双葉から本葉へと成長し、やがて実をつける。そこにある感動は「土はひとりでに実を結ばせる」感動であり、「夜昼、寝起きしているうちに[2]、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか」という驚きです。背後にある自然科学の理屈が分かっていながら感動するのです。感動しない人間は土いじりをしたことがない人か、栽培に失敗した人だけかもしれません[3]。
  イエスの周りに集まったガリラヤの民衆は何を思いながら主の話に耳を傾けたでしょうか。土の神秘でしょうか。先ほど自然科学的マインドを持たない古代人の驚き・感動と言いましたが、本当のところは、彼らにとっても草木の成長は自然のサイクルであり、そんない驚くほどのことではなかったのではないかと思います。ユダヤ人の周辺には豊穣の神に帰依する人々もいましたが、不作が予想される時以外は、豊穣神信仰もリアリティは薄らぎ、「保険」程度の補完物に過ぎなくなったのではないか、と個人的には想像します。現代人にしろ古代人にしろ、人間は予測をつけて行動し、予測が成ることを期待して日常の作業に励むのからです。当然その行動は経験知に基づくものでした。

 では、主イエスは何を言われようとしていたのか。何に群衆の目を向けさせようとしたのか……。それは、神の国、神のご支配はもう既に到来したのだ、という福音の真実です。まだ来ていない、まだ神のご支配がこの世に実現していない、と顔を下に向けていた群衆への福音による「然り」です。イエスが宣言した神の国、神のご支配は、地に蒔かれた種のように目立たぬ形で既に始まっていました。人間の業、努力に依存することなく、神ご自身が手ずから息吹を込め、発芽、成長させていたのです。主は言われます。「知らないうちに(成長する)」(ウっク イーデン アフトス)。しかも強調の代名詞をつかって「彼が知らないうちに」、その人の知識や能力とは関わりなく成長すると。
  イエスは群衆に、マルコは福音の読者に、神のご支配が見えないか、と問いかけます。誰にでもわかる形で実現しているではないか、と迫るのです。それは、ファリサイ派のように律法の行いを全うすることによって起こったのではなければ、サドカイ派のように神殿権威の行使によって生じたのでもない。熱心党のように武力による革命によって成し遂げられたのでも、またまた、黙示想家たちのように人間の年数計算で想定されたものでもない[4]。そうではなく、「イエスという神の一方的恵み」によって始まりました。少し前の14節でイエスが仰った言葉を思い出しましょう。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」 「神の言葉」は言うまでもありません、イエスその人です。父なる神が息吹を込め、手ずから播いて下さったその種は、イエスを主と仰ぎ、信頼する者に「シャローム」(原型回復の平和)を実らさずにはおかない、命を与えずにはおらない!
  この「命の言葉」と言う種を蒔かれた人は、モラルや人間性のみならず、聖霊による新しい存在に醸造されていきます[5]。「神の支配」が成長し、キリストの似姿へと変えられていくのです。しかも、原理主義者のように農業の苛酷さ――土地の開墾、鋤きならし、干ばつや悪天候などとの格闘――を強調して脅迫観念を煽りながらの叱咤激励によってではなく、種蒔き終えたのだから後は種に命を込められた天のお父様にお任せしよう、という主への信頼によってです。「思い煩うな。収穫を完成させるのは父なる神だ!」と言うイエスの言葉が聞こえませんか。


II.                  種の力

:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 イエスは畳みかけるように、からし種を引き合いに出して、神の国、神のご支配を群衆に語り聞かせます。基本的コンセプトは最初の譬話と同じですが、今度はからし種という具体例を出します。
  からし種は当時のパレスチナで、小さいものの代名詞でした。ものの本によりますと、「からし種」(スィナピ)[6]は直径1ミリから1ミリ半の小さな種ですが、発芽して成長すると、茎の高さは最高3メートルから4メートルにまで成長したようです。植物学的には一年生草本のようですが、鳥が宿るほどがっちりしていたからなのでしょうか、民間では「木」と見なされていました。現にマルコ福音書では「野菜」(ラハノン)ですが、マタイ、ルカ福音書の平行個所では「木」(devvdron)と表現されています。
  いずれにしろ、マルコの書き方も、「木」とまでは言わなくとも、1ミクロンの種粒が3メトロン、4メトロンの大きさに成長すると言うのです。一度神が始められた神の国、神のご支配は、人間の想像をはるかに超えて爆発的に広がる、と。神を矮小化しがちのファリサイ派への皮肉であり、神の国の福音の真実の宣言です。このディナミス(力)がイエスにおいて益々明らかになるにつれ、イエスとファリサイ派の確執は深まって行ったのでした。

 この文脈におけるからし種の譬の中心主題は、地に留まり続ける種がどのような成長を遂げるのかです。4章13節からのくだりで「良い地に落ちた種」の譬がありました。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(:30)。この譬話の連想が、からし種の話しに生きてくるのです。小さな始まりが、少しずつの成長を遂げて、大きな実を結ぶ。神の国、神のご支配は、神がイニシアチブを取って確実に前進させて下さる。ことある毎にファリサイ派に宗教的脅迫を受けていた民衆、しかもエルサレムの正統派ユダヤ人からは非正当、不純のレッテルを張られていたガリラヤの民衆の心がイエスの語る福音にどれだけ慰められ、励まされたことか。皆不安定な世の中、不安定な自己存在を生きていたのです。
  けれども、こんな疑問を抱く方もいらっしゃるでしょうか。「イエス様の仰ることは分かりますが、多くの実を結ぶ『ある者』に中に果たして私は入っているのでしょうか? 自分の中には実らしい実をほとんどみることができないのですが…。」 自然な問いです。私も含め、多くのキリスト者(とりわけプロテスタントの福音派に属するキリスト者)がしばしば発する問いかもしれません。もし誰かから「私は生きる穀物畑、生きるからし種よ!」と自信満々に宣言されれば「エー?!」と思うかもしれませんが、「私はまったく実を結ばない穀物畑、全然成長しないからし種だ…」という落胆の思いが心によぎった時にこそ「エー?!」を連発して頂きたい。そして次のパウロの言葉を思い起こしてほしいのです。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22-23)。

私たちはこの個所を読む時、御霊の結ぶ実の結果ばかりに気を取られがちですが、キリスト者を徹底的に迫害したパウロの人生、クリスチャンになった後も、激しい気性のせいで恐らく何度も対人関係で失敗したであろう生身のパウロを思い出ながら再読してみて下さい。
  彼もまた霊的な成長に多くの時間を必要としました。そんなパウロが「御霊の結ぶ実」と言ったのです。「実」(カルポス)です。この講壇から既に10回以上同じことを言ったかもしれませんが、今一度お許し下さい。私も聞きたいのです。
  「実」はどのようして実るのか。木々に実が実るためにはどれだけの時間を必要とするのか。言わずもがなです。種から発芽してしばらくは、双葉、本葉と日々成長を楽しめますが、ある程度の大きさになりますと後は劇的変化を感じることはできません。毎日眺めても退屈なだけです。けれども、種から出てきた芽は、長い月日を経たある時、実をつけます。感動の一瞬です。
  すると今度は、その実がおいしいのかまずいのか、を楽しみにして私たちは木を眺めだします。しかもこれまた開花、受粉、生育と結構な時間をかけて徐々に徐々に大きくなる実をじれったく眺めるのです。しかしながら、実の表面を眺めるだけでは味は分かりません。なぜなら実は内側から成長するからです。
  さて、遂に実は熟しました。収穫です。けれどもまだなお、それが甘いのか苦いのかは分かりません。口に入れるまでは味は分からないのです。結果はいかに……。
  八百屋やスーパーマーケットの成果コーナーには通常、消費者を意識して見栄えの良いものしか陳列されていませんし(そもそも農家が予め選定して出荷しますので、キズものが市場に出回ることはほとんどありません)、私たちも目に美しいものに手を伸ばしがちです。けれども、外観の美しさと中身の味が必ずしもマッチしないことを私たちは経験から知っていますね。また同時に、外見が悪くともおいしい実があることも知っています。
  実とはこのようなものなのです。実の結果ばかりを考えれば、神の恵みよりも自分の行為の方が気になりますでしょう。でも、実を結ばせて頂いたこと自体の有難さ(有り得ないことが成ったことへの驚きと感謝)、神のものとされ聖霊を頂いた真実に思いを馳せるならば、結果など二の次、既に神の恵み、復活のキリストの命が実の中に充満していることに気づくはずです。結果は後で付いてきます。私たちは主イエスと言う木に繋がっているのですから(ヨハネによる福音書15:5)。もっとも、これだけ時間をかけて育てて頂いた実です。多少まずかろうが神様は喜んで下さいます。神が完成して下さったのですから。

 からし種の話に戻ります。パレスチナの人々にとっては、からし種が「木」と表現されほど大きく成長することは自明のことでした。ラビの伝承の中にも「彼はまるでいちじくの木に登るように、からし種の木に登った」という言い伝えがあるほどです[7]。けれども、イエスは、人々が気にも止めなかった神のご支配に群衆の注意を促して、これを見よ、と教えられたのでした。歩きながら自然を観察し、からし種を見つめていたイエスの姿が瞼に浮かびます。

:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。:34a たとえを用いずに語ることはなかった…。


結び

 種蒔きの譬話の締めくくりでした。見栄えなき者が、土という惨めなものの下に隠されていても成長させて頂ける、人の知らないとことで神によって成熟させられる、しかも、素材はそのままで。神の国、神のご支配の真実に聴きました。

最後に短くコメントして奨励を閉じましょう。

:34b [イエスは]御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 譬の中に秘められたものは「神の国の秘密」(ミスティリオン)です。ミスティリオンであるからには、一見誰にでも分かりそうな直喩のように見えても、霊の心で聴かなければ、心眼で見なければ理解できない「秘密」です。最初の種蒔きの譬では、主は無理解な弟子たちを叱責されましたが、彼らは今回はきちっと理解できたのでしょうか。この後の弟子たちの言動を見ますとどうも……。
  それでも、主は弟子たちの肩を叩いて前へ進まれます。その時の主のお顔は…。私には主イエスの優しい苦笑いが見えます。


[1] 種を「蒔いて」(ヴァリ)は一回的行為を表わすのに対して(アオリスト接続法)、「寝起きし」(カセヴディ ケ エギリテ)は継続的無活動を表わす(現在接続法)。
[2] ユダヤ人の一日は夜から始まるからか、或いは、受け身の睡眠の意味か。
[3] 【蛇足】ちなみに、吉良家では今年、ゴーヤとトマトの種を播いたものの、収穫ゼロです。葉は雄々しく生い茂り、ゴーヤの蔓は背丈の何倍にも伸びて、隣にある泰山木が何の木か分からなくなるほど育ちはしたのですが何も実りませんでした。もっとも泰山木をネット代わりにしたり、周辺にばらまいたコリアンダーを気付かずに何度も踏みつけたり、「お世話」もゼロですので当然の結果かもしれませんが…。
[4] E. シュバイツァー『NTDマルコ』135。
[5] Ezra P. Gould. The International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel of Mark (Edinburg: T. & T. Clark), 81.
[6] 植物名「くろがらし」(sinapis nigra);今日イスラエルにみられる「しろがらし」とは別種。高校生時分、太平洋放送協会に遊びに行った折、ラジオ番組の収録に来ていた和泉ちぬさんからイスラエルのお土産、とからし種を頂きましたが、今思えばあれは「しろからし」の種だったのでしょう。
[7] E. シュバイツァー『NTDマルコ』137。