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2011/09/25  「信仰による義人、天を仰ぐ」 ――義人は何よって義人なのか
―― ローマの信徒への手紙1:8-17

:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


イントロ[1]

 本日の個所は短いながらも、ローマの信徒への手紙の中心思想、より具体的に言いますと使徒パウロの信仰理解を根底で支えている思想が記されています。その思想の軸は「福音」「義」という二つのキーワードです。
ただし、はじめに確認しておかなければならないことがあります。ここで語られている「義」(ティケオスィニ)は、人間の判断に基づく正義や正しさではない、と言うことです。「エッ?! 人間の価値判断に基づかない「義」(正しさ)だあ?……そんなのは無責任だ!」と感じられる方がいたら、その人は法治国家日本の善良な市民です。ところが、これが聖書の語る「義」なのです。パウロはローマの信徒への手紙の中でこのことを徹底的に論じました。「義」(ティケオスィニ)は、人間の価値判断に基づくものでもなければ、人間が構成する社会状況によって左右されるものでもなければ、日本的な「清濁併呑」的メンタリティで解消されてしまう類のものでもない。なぜなら、パウロによると、それは「人の」ではなく、「神の義」「神の正しさ」「神の裁量」に由来するからです。
もし「キリスト教は西洋の宗教」というイメージを持っている人であれば、この説明は腑に落ちないかもしれません(実は発祥はオリエント、広がりも東西南北)。更に、プロテスタンティズムが近代ヨーロッパ啓蒙主義の産物であることを知っている方であれば、謎は深まるばかりでしょう。実際、私の本棚を瞥見しても、「義」について論ずる本はほぼ欧米人か西洋思想を踏まえた日本人によって書かれています。例えば、John RawlsのA Theory of Justice[2]やMichael SandelのJustice: What’s the Right Thing to Do? [3]。
ただし、本のタイトルからも明らかなように、両書に共通していることは実は「正義論」の叙述です。つまり、「正義とはこれである!」という断言ではなく、我々(この場合西洋人)が正義と呼ぶものの構成要素は何か、正義はどうして正義と呼べるのかを、様々な角度から論じているだけです。「正義」を定義する試みと言い換えても良いでしょう。これらの本にかかればヒーローものの勇者たちも裁判にかけられる可能性がある、と言ったら愛想がありませんが、それだけ緻密に正義論を論じているのです。
そもそもこのような本が書かれる背景には、主に西ヨーロッパで発展した「正義」の概念が横たわっています。その芽生えは古典古代のギリシアやソクラテス、プラトン、アリストテレスにまで遡ることができますが、今日の西洋における正義概念の基礎は近代に構築され、ジョン・ロック、ルソー、インマヌエル・カントらの哲学に負っていると言って良いでしょう。彼らの思想の根底には「正義はある」という前提が暗黙の了解としてあるのですが、論の体裁は「社会契約論」的な正義でした。つまり、大勢が集まって、社会の中に、或いは個々人の間に、(当時あると信じられていた神与の)コモンセンスに基づく、決まり事です。けれども、人の合意・契約に基づく決まり事(法律)ですから、「絶対」と言えるものではなく、あくまで(理想に反して)「相対的」なものに過ぎません。つまり、社会状況によってその正義の概念は大きく左右され得るということです。黒人奴隷や植民地主義、北米先住民族の悲史を挙げるまでもなく、歴史の証人である私たちはそれを証できますでしょう。ですから、RawlsにしてもSandelにしても、彼らが語るのは「正義論」(正義という論の説)である訳です。
  人間が過去から学び、知恵を絞って、コミュニティーの中に生きる者としての責任ある価値判断や、それに基づく正義の探求が大事なのは言うまでもありません。しかし、冒頭で申し上げましたように、ローマの信徒への手紙書に叙述されている「義」(ディケオスィニ)は、人間の価値判断に基づくものではありません。それは、パウロによると「神の義」「神のご裁量」なのです。


I.                  神の義

 日本語聖書で「義」と訳されている言葉は、英語訳の聖書ではほぼ例外なく “righteousness” と訳されています。さて、ここで思い出して下さい。先ほど触れたロールズとサンデルの本のタイトルは “Justice” とありました。“Righteousness” ではありません。日本語では一般的に、justiceを「正義」、righteousnessを「義」と置き換えますが、漢字そのものが意味するところは基本的に同じです。儒教における五常の一つに「義」が挙げられていることを考えれば言わずもがなでしょう(仁・義・礼・智・信)。Justiceは元来裁判用語で白黒のはっきりとした「法律的な正さ」を言いました。それに対してrighteousnessは「モラル的な正さ」「倫理的生き方」「生き様の正しさ」を意味します。では「義」のギリシア語「ティケオスィニ」にはどのような意味が含蓄されているかと申しますと、人や時代によって使われ方は多種多様ですが、正しい状態、合法性、正直さ、倫理平等性[4]などです。つまり、justiceとrighteousnessの両方の意味を含んだ言葉であるということです。しかしながら、新約聖書の用例はすべてrighteousnessの意味です。しかも、パウロがローマの信徒への手紙で込めたニュアンスは、「神ご自身が義を実現なさる(つまり、不義で不敬虔である者を義に変えてしまう)神の行為」「人間が自分の努力、律法の行為によって自ら達成しようとする義に対立して、神ご自身の意思・裁量によりキリストを通して与えようとなさる義」です。つまり、パウロは「ティケオスィニ」に、自分も他人も含めて、人の判断基準には決して依存しない「お前は義人だ!」という認定(「正しい状態にある!」という宣言)を、神はご自身の一方的裁量をもって私たちに与えて下さるのだ、という福音理解を込めたのです[5]。ちなみに、「ティケオスィニ」は新約聖書に91回出てきますが、その内57回はパウロの手紙に、さらに内33回はローマの信徒への手紙に登場します。パウロの熱い思いが伝わってきますね。

 さて、17節には、そのような神の義は「福音」に啓示されている、とあります。聖書本文ですと「福音には、神の義が啓示されていますが…」というくだりです。神の義が福音に啓示されている、とはどのような意味なのでしょうか。
以前「福音」という言葉のギリシア語は「エヴァンゲリオン」(good new)であると紹介しました。そして今「義」(ティケオスィニ)という言葉を学びました。もうひとつ重要な言葉があります。「啓示」(アポカリプト)です。
「啓示」のギリシア語「アポカリプト」には元来「覆いを外す」という意味があります。ヨハネの黙示録の「黙示」のギリシア語もこの言葉の名詞形「アポカリプスィス」でした。つまり、今まで覆い隠されていたものの覆いが取り払われ、隠れていたものがすべての人たちの前に顕現した、これが「啓示」なのです
この啓示は「福音」の中に証示されている、とパウロは論を進めます。


II.                  神の義が福音に啓示されているとは

 では、人々の前に開示された「神の義」が福音の中に啓示された、とは一体どのようなことなのでしょうか。より具体的に言いますと、福音として啓示された「神の義」は、いったいどのような仕方で実現されたから「福音」なのでしょうか。17節後半を見てみましょう。「それ(神の義)は、初めから終わりまで信仰を通して実現される」。
新共同訳のこの個所の訳文は、口語訳や新改訳と比べて非常に優れています。口語訳の「信仰に始まり信仰に至らせる」、新改訳の「信仰に始まり信仰に進ませる」では、福音を信じる者が「不完全な初歩的な信仰から始まって、より深い信仰に導かれていく」[6]という印象を与えかねません。それでは福音どころか行為義認の律法になってしまう。けれども、パウロが言わんとすることは、新共同訳のように、「神の義というものは、終始一貫して、信仰(信頼)という仕方で明らかにされ、実現されるのだ」ということです。ギリシア語原文では四つの単語からなる文章です。「エク ピステオス イス ピスティン」、韻を踏んだ響きの良いギリシア語文ですが、大阪聖書学院時代の私の恩師、織田昭さんは個人訳でこのように訳されていました。「初めも信頼なら、最後も信頼一筋の道」[7]。
  さて、この思想は実は16節で既に、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」という一文で表現されています。「信じる者=信頼する者」をすべて救ってしまう福音です。けれども、パウロが「神の義は初めから終わりまで信仰を通して」と17節で改めて念を押すのには、重要な意図があります。ヒントはガラテヤ信徒への手紙3:1-6。

:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

 キリスト者の信仰は始め十字架と復活のキリストで始まります。けれども、終わりまでキリストを信仰、信頼し続けるのはなかなか至難の業で、途中でキリストが別のものにすり替わってしまうことが多々あるのです。それも気づかぬうちに。たとえば、初めは「からし種」ほどの信頼で始まったキリスト信仰が、行為義認主義に陥ったたり、修行めいたものをして自分の霊性の上がり下がりに一喜一憂したり(修行そのものは悪いものではありませんが)、或いは、信仰ならぬ自分の能力に驕り高ぶったり……。
実は、この「すり替え」は、ほとんどのキリスト者が経験していることかもしれません。けれども推して知るべし、です。これは律法の業であり、全幅の信頼による仕方とは全く異質であることを。神の義、神から与えられる義(ギリシア語文法で言えば属格ではなく奪格[8])は、何かしたからと言って増えもしなければ、減りもしません。「お前は義人である」と私たちに宣言して下さるのは義なる神であり、その条件はただ「主に信頼する」という一点にのみあるからです。私たちは「信頼一筋の道」で安心して喜んでいれば良いのです。あのパウロが「それで良い」と言っています、他ならぬ主イエスが「それで安心していろ」と励まして下さっています。イエスの眼に、私たちはありのままの姿で、素材はそのままで、高価で尊い「義人」なのです。


III.                  信仰による義人は生きる

 次にパウロは今述べてきたことが正しことの論拠として、旧約聖書ハバクク書から引用します。新共同訳の新約聖書本文によりますと、「正しい者は信仰によって生きる」(オー デ ディケオス エク ピステオス ズィセテ)という一句。ハバクク書の文もパウロの文も文字通りに訳すと、今挙げた新共同訳や「義人は信仰によって生きる」と訳した新改訳のようになりますが、口語訳に限っては「信仰による義人は生きる」と逆の語順で訳されています。これも可能な訳なのですが、口語訳はパウロの視点から、その「義人」とはどのような意味での義人なのか、を読み込んだのでしょう。つまり、自分の正しさや人格の立派さによる自力本願の義人なのではない、そうではなく、神に信頼することによって神から「正しい」と認めていただいた義人、義人でないのに無理に義人にしていただいた義人――そんな義人だけが生きる、ということです[9]。
元来旧約聖書では、その人が立派なことをしたとか、高潔な人格を持っているということが「義」や「義人」の内容ではありませんでした。神がその人をどう判断しておられるか、その人は神の眼にどう映っているか、その人は神とのあるべき関係にあるか、が義の基準、内容だったのです[10]。ですから、神がいったん「この者は義である」と宣言されたならば、誰が何と言おうと絶対的に義であって、誰かが何か言ったから義でなくなるとか、自分が失敗したり、人を見て自信がなくなったからそれで神の約束が無効になったりはしません。 

 神が私たちを義人である、と断定してくださる以上、自分の成長の度合いを見て一喜一憂する必要はありません。イエスが「父よ」と呼びかけられた神は「つべこべ言うな。我が子キリストに信頼する限り、これは義人である!」と宣言して下さるのですから。神の義、神がくださる義を頂く道が、この「福音」という名で呼ばれる宣言の中にはっきり示されているのですから。

 この神によって「義」と認められた人たちのずっこけ武勇伝がヘブライ人への手紙11章に羅列されています。この11章が面白いのは、ヒーロー伝ではなくずっこけ伝だからです(アベル、エノク、ノア、ヨセフは例外)。書き方はなんとなくヒーローっぽいのですが、彼らの実際の人と成りはとても褒められたものではありませんでした。けれども、彼らは「神への信頼でただ信じた」から義人とされ、旧約聖書から飛び出て新約聖書の中に登場するのです。神に信頼する者を、神は既に喜んで満足してくださっていた!


結び

 パウロはこのような福音を恥じないと言います。福音はユダヤ人を初め、ギリシア人にも、そして信じるものには誰にでも「救い」をもたらす神の力だ、と宣言するのです。「義」を創り出し、死んだ魂を生き返らせ、希望のないところに光を投じ、存在の危機にある人の魂を回復してしまう力です。
  そのような神が与えて下さる義を聖書の中に発見し、それが福音の本質であると気付いた人が16世紀にいました。意図せずして始まった彼の改革運動はヨーロッパ各地に飛び火し、瞬く間にヨーロッパのあちらこちらを席巻したのです。ご存知マルチン・ルーテル(ルター)によって火蓋が切られた宗教改革です。今朝学びましたローマの信徒への手紙が彼に福音理解をもたらし、それが宗教改革という一大運動を引き起こしたのでした。「初めも信頼なら終わりも信頼一筋の道」の中に神の義が示され、それが「イエス・キリストの福音」であった、と理解した人が、福音に押し出されて始めた(始まった)運動でした。


[1] 本講解説教は、私の恩師、織田昭さんの『ローマ書の福音』(第三版)(えりにか社:1986)に多くを負っています。なお、これは同著者による教友社刊『ローマ書の福音』(2007)以前の旧版です。
[2] Rawls, John. Rev. ed. A Theory of Justice (Cambridge, Mass: The Belknap Press of Harvard University Press), 1991.
[3] Sandel, Michael J. Justice: What’s the Right Thing to Do? (New York: Farrar, Straus and Giroux), 2010.
[4] Passow I, 688 in 『ギリシア語新約聖書釈義事典I』(教文館:1993)376:dikaiosunvh の項。
[5] 織田昭『ローマ書の福音』(第三版)(えりにか社:1986)24。
[6] 同掲書、25。
[7] 同掲書、24。
ちなみに、大胆に意訳している英語の聖書なども、織田訳と同様な訳し方をしているものがいくつかあります。
It is through faith from beginning to end (TEV).
It begins and ends with faith(NCV).
This is accomplished from start to finish by faith(NLT).
  田川建三はこの個所でとりわけ多くの説明を、しかも口語訳と特に新共同訳の訳し方に半ば怒りを込めて施している(田川建三訳著115-118)。特に、「[新共同訳]のように『訳』したのでは、『神の義』が『人間の信仰を通して』はじめて『実現』されることになってしまう」(田川建三訳著『新約聖書・訳と註3 パウロ書簡その1』[作品社:2007]116)は私の理解とは異なりますが、痛快。
[8] 「神の義」を属格ではなく奪格と取る読み方に、田川建三は多くの言葉を要して反論している。内容は興味深い(田川建三訳著『新約聖書・訳と註3 パウロ書簡その1』[作品社:2007]110-115)。
[9] 「エク ピステオス」を「ズィセテ」に掛るとみれば新共同訳、新改訳のようになり、「ディケオス」に掛かるとみれば口語訳のようになる(織田昭『同掲書』30の注11参照)。
[10] 織田昭『同掲書』24-25。