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2011/10/23  「大切なひとつのこと」 ――歴史の中の教会、その本質と使命―― 
ルカによる福音書10:38-42

:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

イントロ

 今朝、私たちに開かれているテキストは、イエスが旅の途中で立ち寄った村の、とある家での出来事が記されています。物語はその村の住人であるマルタとマリアとう姉妹の異なる行動に対するイエスの言葉を中心に展開し、この姉妹たちの異なった立ち振る舞いを通して、「一番大切なことはいったい何か」をイエスは語ります。
  福音書の文脈を念頭に置きつつ、今日を生きる私たちキリスト者、教会への語りかけとして、ルカの福音にしばし耳を傾けてみましょう。


I.                  マルタの名誉回復とマリアの正しい評価

 この物語は伝統的に、マルタとマリアの行動を比べ、マルタが神の言葉などそっちのけで、この世のことに忙しくしているのに対して、マリアはこの世の事柄はとりあえず脇に置き、一番大切なイエスの言葉と教えに聞き入っている、と理解され、説明されてきました。つまり、マルタはダメ、マリアは素晴らしい、という二元論的理解です。実際、私たちは日々の生活の中で実に多くの仕事を抱え、それらに忙殺される余り、心静めて主を待ち、神の言葉に聴く、ということを蔑ろにしがちですから(私も日々それを感じています)、この「マリタはダメ・マリアは善い論」は、案外と説得力があります。けれども、このポピュラーな解釈は実は外れ、イエスの論点の中心はマルタの行動の非難ではないということを明言しておきましょう。

 さて、マルタは客人としてのイエスを相応にもてなすために忙しく立ち振る舞っていました。それに対して、妹のマリアは、忙しく働いている姉をよそに、何もしようとしません。ですから、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」との言葉がマルタの口をついて出たのです。
  マルタの奉仕はそれとして評価されねばなりませんし、イエスはそれを否定されてはいません。事実、主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と優しく諭すように語り掛けているのです。イエスは、優しさを示すときにその人の名前を二度繰り返して呼ばれることがありました(e.g., ルカ22:31[1])。主イエスがおっしゃりたかったことはこういうことでしょう。

 「確かに世の中にはやらなければならないことが多く、それは人間生活の現実であろう。けれども、本当に必要なもの、大切なものは、客人のもてなしだけではなく、あらゆることの中にある。私たちはあらゆるものの中から、状況に応じて、実際には『いくつかしかない大切な事柄、必要な事柄』を賢明に選び取っていかなければならないのだ。それらを人間存在の根源に限定するならば、『必要なことはただ一つだけ』である。

 ルカ福音書の文脈から明らかなのは、そのような究極的意味での「ただひとつの必要なこと」を、「主の言葉に聴く」ということで、正しく評価しようとしたのがマリアだったのです。マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(リングストロフ『NTDルカ』)のでした。 
  イエスはマルタに優しく語り掛けます。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」[2]

 本題からは逸れますが、初めの区分を締めくくるにあたって、この物語の背後にあるひとつのパラドックスを付け加えておきましょう。
  私たちの主は仕えるために私たちのただ中(コズモス)に来られました。そのイエスに聴く時、私たちは主イエスの奉仕を受け入れることになります。つまり、マルタが客人としてもてなしていたイエスは、実はこの家の中で奉仕者であったのです。マリアがここまでの理解をもってイエスの言葉に聞き入っていたかどうかは分かりませんが、少なくとも、聴くことにより、彼女はイエスの奉仕者としてのミニストリー(神の国運動)に参与していたのは事実です。


II.                  大事を見定める指標としての聖書と活きた教会の伝統

 今、マルタとマリアを通して、本当に必要なもの大切なものは、あらゆるこの世的なことの中にあること、そして、現実的には、何が必要なもので、何が大切であるかをその場に即して見抜き、その中から一番大切なものを選び取っていかなければならないことを学びました。
  私たちがそのような価値判断を下すとき、指標となるものが必要です。マリアの場合は「イエスの言葉」でした。私たちの場合は「聖書」という一定の広がりをもった書物。そして、土の器であるキリスト教会の「活きた伝統」(パラドシス ゾンドン)です。「エッ、伝統も?」と驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんので、補足説明致します。
  正典結集史を知る者には自明のことですが、新約聖書27巻の選定は教会の会議でなされ、その決定が教会の伝統となりました。ですから、新約聖書は教会の伝統の中から誕生したと言っても間違いではないのです。その背後で祈りつつもすったもんだしながら聖書正典を選び取って行ったキリスト教会公会議の伝統を造り上げた師父(教父)たちの功罪相半ばする「求道の歩み」「一番大切なものを選ぶ価値の探求の歴史」は、個人のではない公同の「キリスト理解」と「公同礼拝の中心」、そして「キリスト教会の使命」の探求に他ならならなかったのですから。ですから、定型化したとは言え、「公同礼拝」(典礼)はその求道の結晶であって、私たちにとりましては生きた信仰遺産(the living faith of the dead)に他なりません。


III.                  公同礼拝の中心

 やや比較になりますが、聖書と活きたキリスト教会の伝統から学べる公同礼拝の中心とは何でしょうか。皆様はどのような答えをお持ちでしょうか。キリスト教会とは縁のない方たち「キリスト教礼拝の中心は何ですか」、と問われたならば、私たちは何と答えることができるのでしょうか。最大公約数的答えはあるとしても、お一人おひとりがそれぞれの答えをお持ちかと思います。
  私はと言いますと、あまりにも模範解答過ぎて「拍子抜け」されるかもしれませんが、「父なる神に、復活のイエス・キリストによって、私たちの内に生きて働く聖霊に押し出されつつ、キリスト者共同体として父なる神に近づくことのできるという恵みの座」です。平たく言いますと、「神と人との出会いの場」です。
しかし、これだけではありません。私たちは公同礼拝(ユウカリスト、主の食卓、聖餐)において、主イエスの招いて下さる天での王宮晩餐会の雛形に与るのです。そこには、死者を生かさずにはおかないイエスの永遠の命のたぎり、死んでもなお生きる復活の命のたぎり、イエスにおいて余すところなく証示された神の私たちへの愛のたぎりがある。それゆえ、私たちは礼拝において、神へ祈り、神への賛美の歌を奏でることができるのです。
  公同礼拝は、神と人が出会う、歴史を貫く壮大なドラマであって、先立った聖徒、今この世にある聖徒が、生きているお方を共に礼拝する神的空間です。その見える形がユウカリスト(主の食卓、聖餐)であり、昔のギリシア人キリスト者たちは、この神的空間を典礼(リトゥルギア[liturgy])と呼びました。(そういう意味では説教をもっと短くした方が良いでしょうか。)

 このキリスト教会の「最も大切なもの」を看取したキリスト者共同体は、どのような形であれ、イエス・キリストの福音の伝達、イエス・キリストの死と復活の宣言、共同体としての共生、霊的成長に導かれるでしょう。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる(使徒言行録1:8)。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(マタイによる福音書28:19-20)。


結び

 今朝は、マルタとマリアという姉妹の立ち振る舞いと彼女たちに対する主イエスの言葉を通して、キリスト者の集まりである「教会の使命」と教会共同体が捧げる「公同礼拝の中心」を学びました。テーマを盛り込みすぎて内容がばらけた感が多少ありますが、結論はシンプルです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」という主の言葉に聴き、私たちが関わるすべての重要な事柄から、必要な「ひつと」のことを適宜選び取りたい、そのような知恵を与えられたい。これからも祈りつつ、上を向いてこの世の巡礼を続けて参りましょう。


[1]「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22:31-32)
[2] 10:42前半の読みは、最新のUBS第4版にもNestle-Aland第27版にも採用されていない。けれども、42節に関しては、主要な写本間に異なる記述がされているため、訳によって異なる決定がなされている。どの写本の読み採用するかによって訳に多少の違いが生じるのだが、たとえば口語訳は「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」、新改訳は「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」 それに対して新共同訳は、42節の前半部分を欠いている。その理由は、新共同訳は欄外にある読みではなく、本文の読みを採用しているのに対して、他の日本語訳は、ギリシア語原典の定本は同じだが、欄外に入れられている写本(この場合はシナイ写本)の読みの方を重要視し、採用しているからである。編纂者によってシナイ写本の読みが重要視された場合、口語訳、新改訳のようになる。それは英語訳緒聖書でも同じである。