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2011/11/13  「イエスと子供たち」 ――イエスの眼差しに込められた福音
―― マルコによる福音書10:13-16

:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


イントロ

 本日のエピソードは、マルコ福音書における、イエスの公生涯の重大な分岐点に位置しています。イエスは10章を境に故郷のガリラヤを去り、十字架の苦難が待つエルサレムへと巡回の旅を進めるのです。ガリラヤはこの後、復活のイエスと弟子たち再会の場所として、その役目を静かに待つことになります。

 さて、本日の聖書箇書10章13節から16節の「子供の祝福」をめぐる挿話は、全体の流れの中ではやや唐突です。また、この箇所だけを抜き取って読むならば、弟子たちは何に憤慨し、マルコ福音書の記者がこの出来事を通して何を読み手に発信しているのかいまひとつ拾いきれません。けれども10章全体を読みますならば、師匠であるイエスの背中を追って歩く者(イエスの弟子)たちに求められている大切なこと、また、当時のユダヤ人たちの価値観が明示されているのです。結論の先取りとなりますが、42節から45節にあるイエスの言葉がまさにその凝縮です。

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

そしてそのすべては、イエスが宣言された「神の国」(神のご支配)[1]というテーマを主軸に展開しているのです。このプリズムを覗いて読むならば、子供の祝福をめぐる挿話の意味も、なぜこれが10章に置かれているのかも明確になります。


I.                  子供を叱る弟子たち

 この出来事がいつどこで起こったかについては「ガリラヤを出た後で」ということ以外何も語られていません。けれども状況描写は明快です。一群の人々が子供たちを祝福してもらうために彼らをイエスのもとに連れてきました。

:13a イエスに触れていただくために、人々が[2]子供たちを連れて来た。

 誰が子供たちをイエスのもとに連れてきたか。聖書の他の用例を参考にすれば、母親と考えるのが普通かもしれませんが、実際のところは父親たちだったかもしれませんし、年上の兄弟姉妹たちだったかもしれません。ともかく、親たち、年長者たちは、自分たちの愛する子供たち、兄弟姉妹たちの祝福を願って、子供たちをイエスのもとに連れてきたのでした。彼らはイエスがどなたであったのかについて、本質的な次元ではまだ理解していませんでしたが、信頼するラビによる祝福を願ったのです。
  では彼らが願ったイエスの祝福とは何であったのか。ご利益か安心・安全か、その年の無病息災か。もちろんそうではありますまい。彼らはその場限りの祝福やインスタントのご利益を願ったのではなった。親たちは、年長者たちは、子供たちの「未だ見ぬ未来」のため、子供たちの「全生涯の祝福」を乞うためにイエスのもとにやって来たのです。子供たちに深い愛の眼差しを向ける主のアタッチメント(按手=祝福のシンボリックな所作)を求めてやって来たのです。
  すると、主イエスは大人たちの願い通りに子供たちを祝福しました。「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 目をつぶれば、幼子を抱き上げるイエスとその周りを元気に走り回る少年少女たちの姿が浮かんできます。

 ちなみに、子供(ぺディオン;複数形 ぺディア)が動詞「ペデヴォ」なりますと、一義的に「教育する」「訓練する」「しつけする」「教え導く」という意味の言葉になるのですが、子供たちに対するイエスの眼差しから、教育や訓練の心を今一度学ばされます。この眼差しあっての「ペデヴォ」の第二義、「訓戒する」「懲戒する」「懲罰する」「矯正する」「こらしめる」が意味をなすでしょう。生き字引的(encyclopedic[3])大人であったとしても、この眼差しを欠いていたなら、「懲らしめ」は心を伝達する道具とはなりますまい。

 ここで読者にとっては一見不可解な行動をイエスの弟子たちが取ります。

:13b 弟子たちは[子供を連れてきた大人たち]を叱った。

 なぜ弟子たちは人々が子供たちをイエスのもとに連れてくることを制止したのでしょうか。弟子たちは子供たちを軽視していたのでしょうか。正確には分かりません。けれども弟子たちの行動の随所に見られる「自意識過剰さ」がこの度の彼らの態度を引き起こしたことは間違いないでしょう。弟子たちが制止したのは子供たちだけではありませんでした。その背後にいる、弟子たちからすれば、無遠慮な大人たちにこそ彼らに意識は向けられていたのです。弟子たちはライバル心をむき出しにしながらイエスグループ以外の者の善き行動(イエスの名を用いた悪霊祓い[マルコ9:38-40])を静止したり、誰が弟子たちの中で一番偉いかを論じ合ったり(同:33-37)、革命成就の折には私たちを新政府の重要ポストに就けて下さい(同10:35-40)などと節操のない言動を何度も繰り返えしました。マルコ福音書10章31節の主イエスの発言、「先にいる者が後になり、後にいるものが先になる」は「俺が、俺が」の弟子たちの耳には届かなかったでしょう。


II.                  神の国はこのようなものたち(子供たち)のものである

 イエスは返す刀で、弟子たちのこの暴挙に憤ります。

:14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

「子供たちのなすがままにさせよ。妨げるな。何か不都合でもあるのか![4]」と日本語聖書は丁寧に訳していますが、イエスは相当言葉を荒げて弟子たちを叱責したのです。「憤り」(アガナクトー)には「怒る、立腹する、憤慨する、不快感を表す」という意味も含蓄されています[5]。確かにユダヤの世界では子供を軽視する傾向がなかったわけではありません。けれども、イエスがここで鋭く見た問題は、子供の対象化、モノ化ではなかったかと思うのです。「自分の」子供、「誰かの」子供、「ただの」子供、「うるさい」子供……。ここに欠落している重要なことは、子供たちを独立した一人の人格としてみる視点、態度です。行動としては子供を軽んじたイエスの弟子たちは、自分たちもかつては子供であったこと、大人たちから愛されて育てられたことを忘れてしまっていたのかもしれません。弟子たちが不快感を露わにした子供たちを連れてきた大人たちは、子供たちをこよなく愛したいたが故に、彼らの手を引き、抱き上げて、背中におぶってイエスのもとにやって来たのです。

このような弟子たちの子供への態度を見ます時、今日の私たちは現代社会の深刻な病に思いを向けずにはおれません。止むことのない乳幼児・児童虐待です。内縁の夫による虐待や実母による虐待、はたまた夫婦共同作業による虐待……。内縁の夫の無機質な虐待にも大きなショックを受けますが、心と腹を痛めるどころかその虐待に加担する母親たちの存在に衝撃を受けます。彼らは一様に「子供さえいなければ幸せになれると思った」「子供のゆえに相方から嫌われたくなかった」「子供がうるさかった」などと悪びれる様子はないのです。
  「僕は子供が嫌いだ」と言う大人と時折出会いますが、「君もかつては子供であったではないか?」と内心憤慨してこの最高のナンセンスな発言を聞く機会がこのところ増えました。子供のモノ化が進んでいる証左、と私は観るのですが、どうでしょうか。

イエスは、傲慢な弟子たちをグッと見つめながら、「このような子供たちこそ、神の国を受け継ぐ」と宣言されるのです。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。 

 イエスがここで言わんとしていることは、「子供が純粋だから」という単純なことでなありません。そうではなく、子供という弱い存在は自分の力に頼ることができず、大人がなすようなエゴイズムを振りかざして生きることができない、子供は、神の国(神のご支配、神のご裁量)にすべてをお任せしてしか、お委ねしてしか生きることができない、と言うのです。そのような仕方で、子供は初めて「生きる者」となるのだと。「天国(神の御支配)は子供のような者たちのものである」と言われたイエスの言葉の背景には、このようなイメージがありました。子供の純粋性や素直さと比較されようものなら大人はたまったものではありません。勝ち目なしです。なぜなら、子供のように「宗教の原体験」(命の原体験)のごとき世界に大人はなかなか突き抜ける事ができませんし、そのような「人間存在の根源」をリアルに映し出す「人間らしさ」(人間の本来性)から、私たち大人は往々にしてかけ離れているからです。努力してもそこに戻ることはできません。
  けれども、私たちが先入観で早とちりしがちなイエスの「子供を引き合いに出す譬話」を、マタイ福音書18:4にあるイエスの言葉をレンズに読み直すならば、イエスの真意が見えてくるでしょう。

自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

 子供の現実を思い起こして下さい。子供を世話する時私たちは何を一番強く思うでしょうか。もちろん純粋さを感じるでしょう。けれども、もっとも強く感じる側面は、子供の「非力さ」「防御力のなさ」ではないでしょうか。古代社会の住人達はこの事実をより強烈に感じていたはずです。今でこそ当たり前のユニセフや児童相談所など古代パレスチナにはありませんでした。であるならばイエスの趣旨は明快です。「自分を低く」は「謙遜に」の言い換えですが、「子供のように」が追加されますと、「非力に」「無防備に」「プライドを捨て」という意味になるのです。神の前に頭を垂れ、プライドを捨て、己が身の無力さ、己の死すべきたる存在を知れ(memento mori)、と主はおっしゃるのです。

 神の愛は、自分のプライドを支える全ての条件をすべて取り払い、無防備になったとき、初めて気づくものなのでしょう。


結び

 本日のマルコ福音書のマタイ福音書平行個所にはこうあります。

イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18:2-3)

くどいようですが念押ししておきます。マタイ福音書もまた「心を入れ替えて」子供のように純粋無垢になれ、と叱咤しているわけではありません。「心を入れ替えて」子供のように自分の弱さを自覚せよ、そのような自分を受け入れよ、神により頼め、と迫っているのです。その時、初めて本当の意味で神に立ち返ることができる。その時、初めて神を我が王、我が主として迎え入れることができる。その時、初めて天の王国の一員になれるのだ、と福音書は語りかけているのです。
  子供を懐に抱いて弟子たちに語りかけるイエスの瞳の奥には、そのような福音の真実が映し出されていました。


[1] 川島貞雄『マルコによる福音書:十字架への道イエス』(日本基督教団出版局:1996)161。
[2] ギリシア語の慣例から男性名詞でもって「人々」と記されている。
[3] 「百科事典」の英語encyclopediaは元々ギリシア語「エンキクロペディア」で、直訳すると “training in a circle”(エン[in] + キクロ [circle] + ぺディア [education, child-rearing])、つまり “the ‘circle’ of arts and sciences, the essentials of a liberal education” の意。
[4] 「ティ コリイー」 で「何か差支えがあるか」。
[5] 織田昭編纂『ギリシア語小辞典』アガナクトー の項参照。