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2011/12/11  「最高のベストマン」 ――歓びの付添人からの福音
(降臨節の第三主日の福音[B年])―― ヨハネによる福音書1:6-8, 19-28; 3:22-30

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。…1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」


イントロ

 降臨節第三主日です。降臨節第一主日のテーマは「目を醒ましていること」、降臨節第二主日のテーマは「悔い改め」でした。三本目の蝋燭が灯った本日、降臨節第三主日のテーマは「喜び」です。
  私たちはこの日曜日に「喜びの到来」を待ち焦がれるのです。イスラエルへの主の慰めを熱く語った預言者イザヤのように、ユーフラテス川の支流ケバル川の畔でイスラエル回復の幻を見たエゼキエルのように、ベツレヘムの寒空のもと羊の番をしていた羊飼いたちが待ち焦がれたように、東方の異邦人たちが星に導かれたように、私たちたちは喜びの到来を待ち焦がれているのです。この世の旅人である私たちは「主よ、来てください!」(マラナ・タ Veni Domine)と叫ぶのです。
  『讃美歌21』[1]の236番(『讃美歌』218番)「見張りの人よ」(Watchman, tell us of the night)は作曲者と作詞者の生年と没年が全く同じ(1792-1872)という珍しい曲ですが、歌詞を付けた英国人ジョン・バウリング(John Bowring)は米国人ローウェル・メーソン(Lowell Mason)が作曲した旋律に、待ち焦がれる私たちこの世の旅人の思いを乗せ、見張り人との対話形式で美しく歌いあげます[2]。今回は英文原詩を紹介しましょう。日本語は『讃美歌21』の訳文[3]ではなく私の試訳です。文学センスに欠けますが、原詩の響きを感じ取って頂ければと思いトライしてみました。

Watchman[4], tell us of the night, What its signs of promise are.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/約束のしるしが何であるかを。
Traveler, over yon mountain’s height, See that glory beaming star. 
旅ゆく人よ、あそこにある山頂の上だ/栄光を照射する星を見よ。
Watchman, does its beauteous ray Aught of joy or hope foretell?
見張りの人よ、その美しい光は/何かの喜びか希望を予示しているのか?
Traveler, yes - it brings the day, Promised day of Israel.
旅ゆく人よ、そうだ/その光が「その日」をもたらす。イスラエルに約束された日を。

Watchman, tell us of the night; Higher yet that star ascends.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/なぜ星が天を突く程高く昇っていくのかを。
Traveler, blessedness and light, Peace and truth its course portends.
旅ゆく人よ、祝福と光/平和と真実、光の軌道はそれを予示する。
Watchman, will its beams alone Gild the spot that gave them birth?
見張りの人よ、その星の光だけが/祝福、光、平和、真実を生み出したその場所を金色に輝かせるのか。Traveler, ages are its own; See, it bursts over all the earth.
旅ゆく人よ、過去、現在、未来は光の中にあり/見よ、光は世界の隅々に照り輝く。

Watchman, tell us of the night, For the morning seems to dawn.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/夜が明けつつあるのだから。
Traveler, darkness takes its flight, Doubt and terror are withdrawn.
旅ゆく人よ、闇は逃げ去り/疑いと恐れは撤退する。
Watchman, let thy wanderings cease; Hie thee to thy quiet home.
見張りの人よ、見張りの務めを止めよ/汝の静かなる家へ、汝を急がせよ。
Traveler, lo! the Prince of Peace, Lo! the Son of God is come!
旅ゆく人よ、見よ! 平和の主、神の子が来られた。


I.                  ユダヤ教の教師たちの問い

 エルサレムの神殿権威や民衆の宗教家たちは敵意を持ってヨハネの元にやってきましたが、悪意に満ちた彼らの問いもまた、救い主への恋慕を、喜び到来への淡い期待を反映していました。ヨハネ福音書のサドカイ派(神殿司祭階級)とファリサイ派の混同[5]はご愛嬌として、彼らもまた心のどこかで救い主の到来を待ち焦がれていたのです。
  彼らは矢継ぎ早にヨハネに問いを浴びせました。「あなたは誰か……」(ヨハネによる福音書1:19)。「私はメシアではない」(同1:20)というヨハネの答えの中に彼らの天邪鬼的な質問に秘められた期待と恐れが見え隠れます。彼らは問うたのでした。「ヨハネよ、あなたはあの救い主か。」 戦々恐々しながら問うたのでしょう。なぜなら、主を待ち望む者には主の到来は至極の喜びですが、主に人生を委ねることなく、己の主権を主に明け渡さない者にとっては、主の到来は裁きの時となるからです。彼らはこうも問いました。「メシアでないならエリヤか」(同1:21)。もしそうであれば、救いの到来は間近ということになります。ヨハネの答えは「否」でした。では、と彼らは最後にもう一つの問いを発します。「あなたは、あの預言者か」(同1:21)。「あの預言者」とは、申命記で語られるモーセと同じ権威を持つ神の言葉の伝達者のことです(申命記18:15-18)。もし、ヨハネの答えが「然り」であったならば、彼らはヨハネの言うことを受け入れなければなりません。けれどもヨハネの答えはこれまた「否」なのです。「では、あなたはいったい何者なのか。何の権威で民衆にバプテスマ(洗礼)するのか。」
  ヨハネはイザヤの預言の言葉をもって答えます。

わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と。(ヨハネ1:23)

 実は、ヨハネの自己理解は「エリヤの再来」でしたが、ヨハネ福音書におけるバプテスマのヨハネは、イザヤ書の「荒れ野で叫ぶ声」だけを引用することで「見張り人」の役割を強調するのです。「聞け、イスラエルよ。光は間近だ、救いの時は間近だ、喜びの到来は間近だ!」

Traveler, over yon mountain’s height, See that glory beaming star.
旅ゆく人よ、あそこにある山頂の上だ/栄光を照射する星を見よ。
Traveler, yes - it brings the day, Promised day of Israel.
旅ゆく人よ、そうだ/その光が「その日」をもたらす。イスラエルに約束された日を。
Traveler, blessedness and light, Peace and truth its course portends.
旅ゆく人よ、祝福と光/平和と真実、光の軌道はそれを予示する。
Traveler, ages are its own; See, it bursts over all the earth.
旅ゆく人よ、過去、現在、未来は光の中にあり/見よ、光は世界の隅々に照り輝く。
Traveler, darkness takes its flight, Doubt and terror are withdrawn.
旅ゆく人よ、闇は逃げ去り/疑いと恐れは撤退する。
Traveler, lo! the Prince of Peace, Lo! the Son of God is come!
旅ゆく人よ、見よ! 平和の主、神の子が来られた。


II.                  ヨハネの弟子たちの問い

 問いを発したのはユダヤ教の宗教指導者たちだけではありませんでした。ヨハネの弟子たちも、ユダヤ教の宗教指導者たちとは別の感情から、自分たちの師匠が「見張り人」に徹するのをやり切れない思いで見ていたのです。水による清め行為はヨハネの専売特許ではなかったでしょうが、民衆から「バプテスマの」とニックネームを付けられるくらいですから、水による浸しの行為、水による悔い改めのバプテスマは、ヨハネのヨハネたる所以であったはずです。少なくとも、ヨハネの弟子たちのアイデンティティは、師匠の教えだけではなく、師匠の身体的アクションであるバプテスマにあったのは間違いありません。それにも拘わらず、イエスがバプテスマを実践し始めた。

:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。

 「その後」の前に、師匠ヨハネが主イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1:29)と自分の弟子たちに言われていたにも拘わらず、実際その人が独立した活動を始めると何となくジェラシーが湧いてくる。ヨハネ福音書1:37にはヨハネの二人の弟子が、師匠の言葉に押し出されてイエスの弟子になった、というエピソードが記されています。その内の一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレであったとありますが、他にもヨハネからイエスに乗り換えた弟子たちがいたのでしょう。そして、その何倍もの民衆がヨハネを離れてイエスに向かったのだと思います。密かにではあっても、エルサレムのサンヘドリン(議会)の議員ニコデモまでがイエスの元にやってきたのですから。ヨハネの弟子たちのイエスへの嫉妬は無理からぬものでした。
  イエスのユダヤ地方での活動は一過的ではなく、しばらく滞在して継続的に為された感があります(未完了形「エヴァプティゼン」)。しかも、ヨハネのお株を奪うバプテスマを伴う活動を為していました。ヨハネもイエスの活動と並行する形で、アイノンで浸しの活動を続けていましたが、勝っていたのは豊富な水量、水場の数だけです(ヨハネ3:23)。形成は完全に逆転してしまいました。イエスを世に紹介したヨハネは、今や完全に脇役となったのです。
  ヨハネの弟子たちの忸怩たる思いは募るばかりでした。それがヨハネの弟子たちとイエスのシンパの間に清めに関する論争を引き起こしたのですが(ヨハネ3:25)、論争の内容は採るに足りなかったでしょう。どんなフォームで浸すか、どんな文言を伴って水の中に浸けるか、バプテスマへの条件は何か、等々の論争だったのでしょうか。具体的なことは分かりません。けれども、分かっていることはヨハネの弟子たちの焦燥感です。

:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」


III.                  介添人は新郎にあらず

 その弟子たちにヨハネは言います。それでいいのだ。「見よ、彼こそは世の罪を取り除く神の子羊だ。喜べ! そもそも『天から与えられなければ、人は何も受けることができない』(:27)ではないか。」 更にヨハネは続けます。「なぜ憤慨する。もし私があのお方よりも勝っていたならば、彼を世に紹介しようとしなかろうと私は主役であり続けたはずだ。お前たちの嫉妬は『聖なる証し』になっているではないか。彼が私よりも優れているから、お前たちは嫉妬するのだ。」 ヨハネのユーモアでしょうか。福音書本文にはこう記されています。

:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

 ヨハネは更に弟子たちに畳みかけて語ります。「お前たちは言うなれば花嫁だ。だが、花婿は私ではない。あのお方だ。私はあのお方の介添人なのだ。花婿の介添人の役どころをお前たちは知っているであろう。」 その役どころは、古代オリエントでは新郎のベストフレンドと言ったところです。新共同訳とフランシスコ会訳は「介添人」、NAB(Revised Edition)では “best man” と具体的役割名を訳語としてあてがっています。ギリシア語原文では単に「花婿の友人」(オ フィロス トゥー ニムフィウー)とあるだけですが、定冠詞が付いていますから新郎の the friend なのです。
  婚礼に向けての花婿の介添人の役目は多義にわたりました。求婚代理人として結婚式の前夜に花嫁の実家に馳せ参じる任務から始まり[6]、(形式的とは言え)プロポーズが受け入れられた暁には花嫁を迎えに行き花婿の家まで行列の先導を務めたり、宴席では花婿の主賓であったり[7]、結構な重責を担っていたのです。ですから、介添人として新郎の友人に選らばれるのは大変名誉なことでした。
  ちなみに、ここまで役どころが多くなくとも、欧米の「ベストマン」(best man)も似たような機能を担っています。欧米の結婚式において、新郎の付添人兼立会人の男性を「グルームズマン」(glooms men)と呼び、その代表を「ベストマン」と呼ぶのですが、ベストマンは新郎の世話人であり、結婚指輪や結婚証明書運搬や披露宴の幹事など、結婚式の重要人物です。ベストマンに選ばれることは友人として大変名誉なことであるのは言うまでもありません。私も米国で二回ほどその栄誉に浴しました。
古代ユダヤの花婿の介添人は大変名誉な役どころであると申し上げました。その栄誉に浴した者は、花婿の足音に耳をそばだて、花婿の話声に耳を澄ましながら、いよいよ始まらんとする婚礼にスタンバイします。紅潮した彼の顔、早まる彼の鼓動が目に浮かびます。そして遂に花婿の登場を目にして時、彼は歓喜の声を上げ、至上に喜びに包まれるのです。当然です。彼は花嫁を祝言の会場にエスコートし、花婿を迎えるべくすべての手筈を整えてこの時を迎えたのですから。
  ヨハネは言います。「だから、わたしは喜びで満たされている」(3:29b)。嫉妬するどころか喜びで充填される(プリロー)、と言うのです。これが花婿介添人のミッションでした。ミッション完了後は彼の役割は終わりです。それまで中心となり忙しく立ちまわっていた役割を終えるのです。であればこそのヨハネの言葉です。

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(3:30-31)

 結婚式も披露宴も終わったのに、花婿介添人がいつまでもうろうろしていたら困りますね。重要な役目も、役割を終えたらもはや重要ではありません。確かにヨハネは、「喜びへの道備え」を私たちに為し終えました。救い主への道備えをし、私たちをちゃんと主のもとに導いたヨハネ、引き際をわきまえ、フェードアウトの悲哀をむしろ喜びとしたヨハネ――彼こそは最高のベストマンです。


結び

 降臨節第三主日のテーマは「喜び」でした。「主の到来を告げる喜び」「主の到来を待ち焦がれる喜び」です。主の降臨を感謝しつつ、来るべき主の再臨を憶えて祈ろうではありませんか。

 主よ、私たちは待ち焦がれています。喜びを胸に秘めつつも、呻きながら待ち焦がれています。主よ、来て下さい! あの厩においで下さったように、私たちのところにもおいで下さい。ザアカイに出会って下さったように、私たちにも出会って下さい。徴税人レビを呼び出されたように、私をも呼び出して下さい。遊女に「心配するな」と語りかけて下さったように、私たちにも語りかけて下さい。サマリヤの女に「私の与える水は決して尽きない」とおっしゃったように、私たちにも枯れることのない活水をお与えください。主よ、目の見えぬ者、口のきけぬ者、耳の聞こえぬ者、体の不自由な者、病を負っている者に手ずから触れて下さったように、私たちにも触れて下さい。主よ、心の閉ざされている者の心を慰め、温め、励まし、開いて下さい。友のいない者の友となって下さい。主よ、おいで下さい! 私たちはあなたの再臨を切に待ち望んでいます。この世の旅路にあって、私たちはあなたを待ち望んでいます。

Watchman, tell us of the night, What its signs of promise are.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/約束のしるしが何であるかを。
Watchman, does its beauteous ray Aught of joy or hope foretell?
見張りの人よ、その美しい光は/何かの喜びか希望を予示しているのか?
Watchman, tell us of the night; Higher yet that star ascends.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/なぜ星が天を突く程高く昇っていくのかを。
Watchman, will its beams alone Gild the spot that gave them birth?
見張りの人よ、その星の光だけが/祝福、光、平和、真実を生み出したその場所を金色に輝かせるのか。Watchman, tell us of the night, For the morning seems to dawn.
見張りの人よ、その夜のことを教えておくれ/夜が明けつつあるのだから。


[1] 日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』(第三版、日本基督教団出版局)1997。
[2] 川端純四郎・関谷直人編著『CD付き クリスマス音楽ガイド:クリスマス・シーズンに歌いたい音楽50選』(新装・増補版、キリスト新聞社:2007)44を参照した。
[3] 以下は『讃美歌21』の日本語歌詞:
見張りの人よ、夜明けはまだか。/いつまで続く この闇の世は。
旅ゆく人よ、東の空に/あけの明星 ひかり輝く。
見張りの人よ、あの星こそが/約束された 時のしるしか。
旅ゆく人よ、暗いこの世に/平和を告げる 夜明けは近い。
見張りの人よ、朝は来るのか。/すべての恐れ 消えゆく朝は。
旅ゆく人よ、恵みの光/やがて現れ 行くてを照らす。
見張りの人よ、眠らぬ夜の/つとめが終わる 夜明けは近い。
旅ゆく人よ、世の光なる/主イエスは近い、救いは近い。
[4] 「夜、通りのパトロールや監視をする人」のこと。
[5] 1:19ではサドカイ派(祭司、レビ人)、1:24ではファリサイ派。これはヨハネの混同。
[6] ジークフリート・シュルツ『NTD新約聖書註解4:ヨハネによる福音書』(松田伊作訳、NTD新約聖書註解刊行会:1975)119。
(原題:Schulz, Siegfried. Das Neue Testament Deutsch: Das Evangelium nach Johannes [Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht], 1972)
[7] 織田昭『ヨハネによる福音』(未出版デジタル版、えりにか社)第13講5頁。
http://erinika.life.coocan.jp/data040/john13.pdf