メッセージバックナンバー

2011/12/24  「歌いつつ歩めるか[1]」 ――アフリカン・アメリカンからの福音
(A-Soulコンサート&クリスマス・イヴ礼拝講話)―― イザヤ書46:3-4

『あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46b:3-4)


イントロ

 この季節には特にですが、悲しいことに、自ら命を絶つ人が増えます。日本の自死者数は先進諸国では突出しており、毎年三万人以上。しかも、新聞報道によると、この状況は10年連続で続いているという。電車を利用される方であれば、この現実の一端を身近に感じておられるでしょう。驚くほど頻繁に、あの乾いたアナウンスが車内に響くのですから。「人身事故発生。」
  人が自ら命を絶つ理由は千差万別でありましょうが、敢えてその理由をあげつらう必要もありますまい。「孤独」という社会の抱える病に倒れたのです。


I.                  個人化がもたらしたもの

 第二次世界大戦後の日本社会構造は大きく変化しました。産業が復興し、都市化が進み、社会が世俗化し、伝統的村社会・家社会が崩壊(或いは溶解)してしまいました。貧しい農村では食べていけない二男以下を中心に、若い世代が新しい可能性を求めて都市部へと移動したことにより、地方社会は昔ながらの伝統を担保、保持できなくなったのです。
  都市部へと移住した人々はそこで結婚し、所帯を持ち、家族を形成しました。彼らはもはや出身地にUターンすることはありません。そこで何が起こったか。核家族の誕生です。そして、核家族の誕生はその必然として個人主義を生み出したのです。
  もっとも個人主義が悪いわけではありません。むしろ利点や評価すべき点を挙げれば、枚挙に暇はないでしょう。個人主義はあくまで都市部に登場した新しい生活の形態に過ぎないのです。けれども、多くの人が想像しなかった形で、個人主義は私たちに負の遺産をもたらしました。孤独を防ぐコミュニティの欠落です。己のアイデンティティを支える土台の喪失です。それが結果として「孤独」を増幅させました。(私の喩ですが)地方社会の神々を殺して行く作業に比例して、孤独化がものすごい勢いで進んだのです。


II.                  絆の再発見

 今日の都市部でこんなことを言えば、「それじゃあ、かつては地方部に人々の繋がりあったのか? 人々をつなぐ絆があったのか? 共同体と言えるものがそこにあったか?」と問われるかもしれません。 はっきりと答えましょう。確かにありました。今年を象徴する漢字に「絆」が選ばれたではありませんか。「絆」がある社会にわざわざ「絆」を強調したりはしません。「絆」がなかったところに「絆」が生まれたからこそ、この漢字が選ばれたのではありませんか。私たち都市部の人間は長いこと、人と人を繋ぐ絆を失っていたのです。
  今年の3月11日以降、日本列島に住むすべての人間が、腸が引きちぎれるような思いで日々を過ごしてきました。あの東日本大震災は多くの尊い人命が奪い、多くの物的損害をもたらしたからです。比較的横の繋がりが強い地方社会であっても、自分がそこに根を張っていると思われていたすべてのものが失われる、という現実を目の当たりにしたからです。人々はけだし、木が根っこごと引き抜かれるがごとく、生まれ育った大地から引き抜かれたのでした。
  しかし、皮肉にも、そして幸いにも、そこで浮き上がって来たものがありました。「絆」です。被災した人々は気付かされたのでした。私たちの間には「絆」があるという真実に。都会人たちも気付かされました。私たちにはそれがない。属する共同体がない。人と人の「絆」を確認する場が欠落している、という事実に。東日本震災は全国規模で私たちに絆の大切さを気付かせてくれました。如何に私たちが絆の大切さを忘れていたか、それを失っていたか、を。


III.                  絆を歌い上げる

 昨日はめじろ台キリストの教会を会場として、『A-Soul』によるゴスペルコンサートが開催されました。お気づきの方もおられるでしょうが、このようなジャンルの音楽はルーツを辿ればアフリカに行き着きます。それが音楽文化として花開かせたのはアフリカン・アメリカンでした。
  アフリカン・アメリカンがかつて奴隷としてアメリカに連行され、アメリカで奴隷の身分に置かれていたことは周知の事実です。奴隷の縄目に繋がれていたそんな彼らは歌を歌ったのでした。同じく縄に繋がれている者同士の絆を大切にしながら共に歌ったのです。
  彼らが歌い上げたものは何か。苦しみの吐露であり希望の歌です。誰に向けてそれを歌ったか……。聖書の神に、です。神の生き写し、イエス・キリストにです。彼らの救い主に対してです。彼らの苦しみ、嘆きは救い主に熱烈に救いを期待することでした。「お前を救うぞ、白髪になるまで担いきるぞ」と約束された神への期待を歌ったのです。ですから、彼らが作り上げた響きから発展した音楽を、今日「ゴスペル音楽」と呼ぶのです。「ゴスペル」には「善きおとずれ」(good news)の意味があります。アフリカン・アメリカンにとってゴスペル音楽は、かつての苦渋の記憶と共に祈った解放への希望、そして、互いの絆を確認する重要な宗教資源、文化遺産に他なりません。

 かつての奴隷たちはクリスマスにまつわるエピソードも多数、歌い上げました。とりわけ、羊飼いに現れた天使たちと、その天使たちが指さしたひとりの嬰児のことを情熱を込めて歌ったのです。この赤子の中にすべてがありました。彼らの弱さが嬰児の中に凝縮されていました。彼らの無力さが投影されていました。そして、この嬰児は、彼らの希望をも宿していました。
  皆さん、多くの西洋絵画になった家畜小屋に生まれたイエスのあのシーンをどう思われますか。美しいですか。ほのぼのしていますか。確かにそうかもしれません。けれども、かつての奴隷たちはそうは見なかった。彼らは、やがてこの子供が歩むその道のりを、糞尿溢れる家畜小屋での誕生に見ていたのです。十字架への道のりです。奴隷たちは自分たちの歩みと合わせて、この幼子が歩むことになる十字架への道を凝視していたのです。
  もっと正確に言いましょう。彼らはこの幼子が自分たちと共に歩んでくれるその苦難の道を全身で感じ、歌に込めて叫んだのです。だが、彼らが見ていたのはそれだけではなかった。十字架の向こう側も仰いでいたのです。神がイエスを復活させたあの世界、死の向こう側です。白髪の向こう側の世界です。死が敗北に終わった復活の世界です。死んでも生きる神の命たぎる世界です。


IV.                  アフリカン・アメリカンからの日本人へ誘い

 この世の旅路を歩み通すのは決して楽なことではありせんね。私たちの人生を表わす言葉に喜怒哀楽という四字熟語がありますが、どうでしょう。「喜」「楽」よりも「怒」「哀」の方が多いでしょう、おそらく。そのような人生の中で、私たちは時に自分だけでは負いきれない重荷を担いながら歩んでいます。その重荷は重すぎる。ひとりでは負うことはできない。
  かつてのアメリカのアフリカ人奴隷たちは、家畜小屋で生まれた赤子に彼らの重荷を下ろし、未来を託しました。やがて成人した後、十字架の上で死ぬ男に自分のすべてを託しました。やがて、神が死の中から引き揚げたあの男に自分の全存在を託したのです。イエスというひとりの男に、です。彼は救い主でした。命の源泉でした。私たちの存在の源でした。福音書はこのように証しします。

 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
(ヨハネによる福音書1:4:18抜粋)

 さて、現代日本に生きる私たちは、この生々しい生の中で歌えるか。かつての奴隷たちは私たちに言うでしょう。共に歌おうではないか、イエスに自分を丸ごと委ねて。その時、何かが起こるのだから。委ねてみるが良い、あの家畜小屋で生まれた嬰児に、十字架で殺された男に、神が死者の中から引き揚げたあのメシアに。その時、逆説の福音が生じる――嘆きは変わりて祈りとなる。嘆きは変わりて歌となる。乏しき時になんと満たされてしまう。さあ、歌いつつ歩まん、この世の旅路を!


結び

 「絆」は何かがあって初めて生まれます。母体があって初めて誕生します。人と人とをつなぐ絆は「おたいせつ」との縦の線です。その縦の線があって初めて、私たちは横の繋がりを生み出すことができる。一過的にではなく、持続的に。私はさまざまなところで人間の繋がりに招き入れられ、さまざまなところで絆を発見しました。とりわけ、ここ「めじろ台キリストの教会」で私はそれを見出した。かつてのアメリカの奴隷たちが希望を置いたその同じお方に希望を置く人々の交わりの中で、人と人を繋ぐ「絆」を発見したのです。しかもその絆は縦の線を中心とした横のつながりであった。
この人間存在の真実に目を留めるならば、人の存在は神あっての存在、人類共同体の中で初めて意味をなす社会的存在であることに開眼するでしょう。そして、現代を生きる一人ひとりが、2010年前の出来事と今を生きる私たちとの繋がりを「人の絆の中」でリアルに感じ、アメリカのかつての奴隷たちと共に、世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリストのご降誕を祝い、感謝できるようになると思うのである。絆はそこから生まれます。

メリークリスマス!


[1] 本講話は2011年12月23日に開催されたゴスペルコワイア『A-Soul』の「クリスマスゴスペルコンサート」の中で為したショートスピーチが基礎となっていますが、めじろ台キリストの教会2011年12月24日の「クリスマス・イヴ礼拝」用に内容を更に膨らませ、通常の礼拝時の説教の長さに近いものに仕上げました。
※『A-Soul』のコンサートの中では、私の痛恨のミスでスピーチの原稿を一枚抜かしてしまい、尻切れトンボの講話になってしまいました。お話ししようとしていた内容は原稿にある通りです。コンサート参加者とA-Soulの皆様に、この場をお借りし改めてお詫び申し上げます。