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2012/01/22  「神の霊によって生きる」――イエスのバプテスマ―― マルコによる福音書 1:9-11

:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


イントロ

 キリスト者、クリスチャンと呼ばれる人々は大方、水による浸し、水による洗いによるバプテスマ(洗礼)を受けています。大方と言いましたのは救世軍やフレンド派(クエーカー)、無教会等の身体的アクションを伴うバプテスマを実践しないグループもあるからなのですが、キリスト教界全体の中では例外です。一世紀のエルサレムの初めの教会から今日の教会に至るまで、私たちキリスト者はバプテスマを実践してきたのでした。


I.                  ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマの違い

 ところで、私たちはどのようなバプテスマを受けたのでしょうか[1]。私たちの受けたバプテスマとは違う種類のバプテスマを例示しながら、私たちのそれが何であるのかを指し示す興味深い記述が使徒言行録にありますので、見てみましょう。

さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。…アポロがコリントにいたときのことである。パウロは…エフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。(使徒言行録18:24-25, 19:1:5)

 有名な雄弁家アポロも初めは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」にも拘わらず、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。ヨハネのバプテスマとは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)です。
けれども、それはあくまでも「悔い改め」の洗いであって、「神の霊による新生」の浸しではなかった。ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマの決定的違いはここにある、とパウロはひとつの問いを発しながら力強く語りました。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。」

 イエス・キリストの名によるバプテスマに与った時、私たちは聖霊を頂きます。その霊が私たちの存在の中心に住んで下さるのです。主イエスはその出来事が起こる前、天に昇る直前に、弟子たちにこのように語られました。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。…あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:4b-5, 1:8)

 イエスが捕えられ、十字架に架けられた時、自分の命を守らんがために師匠を見捨て、散り散りばらばらに逃げ去ったあの弟子たちがその後、どのようなイエスの「証し人」となっていったか私たちは知っています。彼らがヨハネの洗いだけではなく、聖霊の充填というイエス・キリストの名による恵みのバプテスマを受けた後、押し出されるようにして福音宣教の業に邁進しました。聖霊を受けたイエスの弟子たちは、力いっぱい声を張り上げ証しします。

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。…悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は…わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録2:36-40抜粋)

 皆さん、私たちは救い主イエス・キリストの御名によって水に浸されたのです。このお方の名によって洗われたのです。私たちはイエス・キリストの名によるバプテスマにより聖霊が与えられました。聖霊とは一言でいえば、イエスの心そのものです。その心が私たちの内に宿って下さいました。私たちを素材はそのままで新しい存在へと造り変え、新しい命へと新生させ(存在回復)、死んでも生きる永遠の命を与えずにはおかない神の霊が、です。


II.                  イエスは何故バプテスマを受けられたのか

 さて、今さら何ですが、我々キリスト教会はなぜイエスの名によるバプテスマを実践するようになったのでしょうか。どこから出てきた身体的アクションなのでしょうか。本日私たちに開かれている福音書にその起源が記されています。読み進んで参りましょう。顕現節のクライマックスと言っても良い出来事です。

:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

 そのころがいつ頃であったのか正確なことは分かりません。福音書記者は、ヨハネが不思議な出で立ちで登場し、ヨルダン川で人々に悔い改めを説き、水による罪の赦しの浸しを実践していた時に、イエスがヨハネのもとにやって来たことを強調するのです。ずいぶん多くの人々がヨハネのもとに押し寄せたようです。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:5)と言うのですから。不思議な出で立ち――らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食す(1:6)――でヨルダン川に立っていたヨハネは叫びました。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1:7-8)

イエスは正にその時やってきたのです。群衆に交じってヨルダン川に身を沈め、ヨハネのもとに近づいて行きます。ヨハネからバプテスマを受けるためです。マルコ福音書は「かくしてイエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」とさらっと書いていますが、ヨハネがその人を指して「私はその方の靴ひもを説く値打もない」と言った方が「私にもバプテスマを」と迫ってきたのですから、ヨハネの動揺は察して余りあるでしょう。実際、他の福音書ではこのようなやり取りが記されています。

イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:13-14)

 なぜ、罪のない神の子、主イエスがバプテスマを受けようとされたのか。多くの人が持つ疑問です。マタイ福音書では、今挙げたヨハネに問いに対してイエスはこのように答えられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)。マタイ福音書ではイエスはこう言うのです。罪を悔い改め、水に浸されること――これは正しいことなのだ。「正しい」(ティケオスィニ)とは、「義である」ということです。聖書がいう「義」(ティケオスィニ)は、私たち人間の行為が正しいかそうでないか、という人の行動原理に基づくものではありません――つまり、律法の要求を貫徹することによって与れる類のものはないのです。聖書が語る神の義は、ただひたすら神の一方的働き掛け、神のご裁量に基づく行為であり、神の救済の業そのものを指すのみです。その神のご裁量を「主よ、信頼します。ありがとうございます」と受け入れた者が義人と認められたのでした(ヘブライ11章)。イエスはそのような父なる神の義の働きかけに応答され、その応答を「正しいこと」と言われたのです。[2]


III.                  イエスの上に霊が降る

:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 マタイ福音書では、なぜイエスがバプテスマを受けられたのか、という理由が記されていますが、マルコ福音書はそのことに沈黙しています。より正確に言うならば、イエスのバプテスマに関するマルコの関心は「理由」ではなく、それが指し示す「コト」なのです。マルコはまるで先を急ぐかのようにさっさとイエスのバプテスマに触れ、その直後に起こった出来事に意識を集中します。
不思議な光景です。イエスが水の中からあがると天が裂けて「聖霊」が降ってきた、というのです[3]。福音書の読者はそれが本当に意味したところをすぐさま理解することはできなかったでしょう。けれども、「神の時が来た!」という印象は持ったはずです。預言者マラキから400年のも間、預言者を送らずに沈黙を貫いていた神が天を開け、遂に世界に介入して「言」(ロゴス)を与えて下さったのですから。神は確実に新しい時代を開始され、自らの霊を独り子イエスの中に充填して下さったのです。もっとも、イエスのバプテスマの現場では主イエス以外は誰も、天が裂けことも、神が声を発せられことも知りなかったのですが……。
  イエスのバプテスマ、主の上に聖霊が降ったこと、それは具体的に何を意味したのでしょうか。その理由を三つ挙げましょう。@神は終わりの時代に、私たちの為に執り成しをして下さる罪のない、最後にして完全な大祭司を立てて下さいました。A私たちに救いをもたらす聖霊の油を注がれた王なるメシアを立てて下さいました。B私たちのために、最後の預言者――それも、そのお方が神の言(ロゴス)そのものである神の子イエスを遣わして下さいました。
  天が裂け、聖霊が降った時、私たちの父なる神は、このイエスが誰であるのかを世界に対して、私たちに対して宣言されたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である、私は彼をこの上なく喜んでいる」と。


結び

 主イエスのバプテスマは神学的キリスト論と関わりますので、古代から多くの議論がなされてきました。けれども、理屈は一端脇に置いてこのエピソードに聴きますと、私たちはこの出来事から励ましを受けます。確かに、水の中に己を委ね、そこからまっすぐに天に向けて水から顔を出した主イエスのもとに聖霊は降りました。けれども、主イエスの人生は決して平坦ではなかった。むしろ、聖霊を受け、神のメシアとして行動したが故に幾多の迫害に会い、苦しめられ、血の汗を流しながらもがいたのです。最後は両手首、両足の脛を釘で貫かれ、十字架上に磔にされ、処刑されてしまいました……。それにも拘わらず――ここが味噌ですが――イエスの生涯には笑いに満ちていた。優しさも溢れていた。愛情にも富んでいた。そして、何よりも復活の命が滾りにたぎっていた! けだし、主は磔刑死の三日後に復活されました。神が執念をもって復活させたのです。 

 めじろ台キリストの教会はキリストの後に従う者の群れです。ここに集うキリスト者、クリスチャンたちは、イエスを救い主と告白し、バプテスマされた時聖霊を受けました。キリストの心を私たちの存在の中心に頂いたのです。その時から、私たちはキリストに従う者としての歩みを始めました。よちよち歩きの時から少しずつ成長し、大人の信仰者となっていったのです。けれども、成長すれにつれあることに気付きました。私たちはこの世では寄留者に過ぎないことを、日本社会ではよそ者であり得ることを……。私たちが信仰者であるが故に命が危険に晒されることは今日の日本ではまずないでしょう。けれども、信仰者であるがゆえに苦しむことは多々あります。涙を流すことも多いかもしれません。なぜなら、キリスト者、クリスチャンというあり方は、時に社会との軋轢を生むことがあるからです。何か特別なアピールをしなくとも、誤解されること、理解されないことはままあります。けれども、と言いますか、だからこそ、今一度上を向きたく思うのです。主イエスも同じ経験をされました。そして、主は、復活の命を生きぬき、今も生きておられるからです。
今日今一度思い出しましょう。私たちがバプテスマされた日のことを。そしてあの時の思いを新たにしたく思うのです。私たちが頂いたバプテスマは、キリストの霊の充填による新生を私たちにもたらしたのですから。これは笑い、喜び、希望、愛の源です。


[1] 本来のギリシア語原典で「バプテスマする・される」と書かれているが、日本語としてぎこちなくなるので便宜上「バプテスマを受ける・授ける」とした。しかし、儒教の発想が強い日本の教会で「受ける・授ける」にしてしまうと、バプテスマの主宰者が「授ける人」であるという誤解を生みだしかねない。キリスト教会内にある儒教的権威主義には常に注意を喚起せねばなるまい。
[2] E.シュヴァイツァーの「神の義」に関する簡潔明瞭な解説は示唆に富んでいる。E.シュヴァイツァー『NTD新約聖書註解2:マタイによる福音書』(佐竹明訳、NTD 新約聖書註解刊行会:1978)58-61。(原題: Schweizer, Eduard. Das Neue Testament Deutsch: Das Evangelium nach Matthaus [Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht], 1973)。
[3] 私たちは鳩と聞けば平和のシンボルのように考えがちだが、実は聖書では、ノアの洪水の時に活躍した鳥であったり、神殿に捧げされる犠牲であったりはしても、わざわざここで登場する妥当な理由は見当たらない。E.シュヴァイツァーのような第一級の聖書解釈者であっても「もっとも手近にある鳥の一つが、聖霊を象徴するイメージとして選ばれたのかも」と言うだけで、明確な結論は提示していない。ただ、シュヴァイツァーが紹介する音がもたらす偶然は興味深い。曰く、後期ユダヤ教において神の声(聖霊の声)が鳩の鳴き声と比較されたことがあるが、それは「神の臨在」を表すヘブライ語「シュヒーナー」という言葉の母音を読み変えたら、たまたま「シェカヨーナー」(「鳩のようなもの」の意)になったから(E.シュヴァイツァー『NTD新約聖書註解1:マルコによる福音書』(高橋三郎訳、NTD 新約聖書註解刊行会:1976)45。(原題: Schweizer, Eduard. Das Neue Testament Deutsch: Das Evangelium nach Markus [Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht], 1975)。ちなみに、聖書の用例では、鳩のイメージは全体的にあまり良くない。たとえば、「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め/あるいは、アッシリアに頼って行く」(ホセア7:11)。「王妃は引き出され、衣をはがれて連れ去られた。侍女たちは鳩のような声で嘆き、胸を打つ」(ナホム2:8)。唯一新約聖書だけは良い意味で使っている。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。