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| 書評&映画評 |
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織田昭編纂『新約聖書ギリシア語小事典』(教文館、2002) \5,250 |
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概してドイツ語、英語圏で学んできたという新約聖書ギリシア語学者は、単語の意味論、文章の統語法の数学的知識には精通しているが、生きた言語としてのギリシア語に関する知識は殆どない。それ故、時に、新約聖書時代からだけ抜き出した数学的データのみに頼り、珍妙な誤解をする。
学者たちは便宜上、古典期、コイネー期、ビザンチン期、現代ギリシア語などと区分けをするが、本来、言語は常に変化し続ける生き物であって、ひとつの時代だけを抜き出してなす、数学的研究など成り立とうはずはない。新約聖書ギリシア語の全体的把握は、その前(古典期)と後ろ(現代)を見ないでは到底期待できないのである。
その点、大阪聖書学院名誉教師、織田昭氏の「新約聖書ギリシア語小辞典」は、一味も二味も違う。織田氏は生きたギリシア語の中で実際に生活し、数学的には決して説明し切れない、生き物であるギリシア語の持つ微妙な呼吸を体得された数少ない日本人である。しかも、数学的データと生き物であるギリシヤ語の学研が上手く調和された、ギリシア語研究機関世界最高峰のアテネ大学の言語学教室で研究されたのである。
なお本辞典の特徴は前置詞の詳しい説明と約音動詞の表記方法である。大方の辞典が非約音型で約音動詞を表記しているのに対して、織田氏の辞典ではすべて約音型の表記で統一されており、約音の型は単語の後ろに括弧書きで記されている。それはとりもなおさず、新約時代には非約音型は既に廃れており、新約聖書のどこを探しても非約音型の約音動詞はひとつも出てこないという事実に基づくものである。
もうひとつの特徴としては、古典式発音と現代式発音の違いが、アペンディックスで詳述されている点である。編者はそれらを取り上げながら、ギリシア語の発音がどのように変化していったのかを明瞭に解説している。
その織田氏により第四版まで重ねられたこの「新約聖書ギリシヤ語小辞典」はギリシア語聖書読解のコンパニオンとして実に頼もしい。しかもサイズはポケット版だから、携帯に大変便利である。本書を、清い心と正しい良心(ギリシャ的表現)から、新約聖書の学徒は言うに及ばず、古典ギリシャ語、現代ギリシャ語の学徒にも自信を持ってお勧めする。
(東京のヘレニスト) |
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織田昭著『新約聖書のギリシア語文法』(教友社、2003) \7,140 |
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新約聖書ギリシア語小事典の編者でもあり、アテネ大学で研鑽された、織田昭氏によって執筆された1000ページにも及ぶ大著。邦文で書かれたギリシア語文法書で、これほど詳しいものは嘗て存在したことがなかった。
内容は、既存の文法書とは異なり、これでもか、とうくらいに懇切丁寧な説明が施されている。たとえば一見不規則に見える動詞の変化の背景が歴史的に詳述されていたり、音韻論、語形論が、歴史的背景に加えて、他の言語との関わりにおいても説明されている。とりわけ統語法の論文は、これだけでも独立した書籍となり得るくらいに質が高い。
既存の文法書は「独習書」というよりは教室における「教師向け」或いは「教師付き生徒用」の教科書と云った向きがあり、大方のギリシア語学習者にとっては不便なものであった。だがこの文法書は、初級者から上級者までもが自分のペースで、挫折せずに学べるように工夫されている。例えば、初級者や中級者には専門的でややこしい説明は各セクションの後半に設けられている注に入れられている。
もう一つの特徴は練習問題の多さである。独習者は練習問題をこなしながら、各単元の習熟度をチェックできる。また、希和訳の問題だけではなく、和希訳の問題もあるので、ギリシア語から日本語への一方的思考だけではなく、日本語からギリシア語を考えるトレーニングもできる。この訓練により邦訳聖書を読みながらギリシア語原典のニュアンスを類推する癖と力量が培われるであろう。
なお、ロバートソンにも引けを取らない学術的大著であるが、織田氏の文法書は、ユーモアに溢れた、物語調のギリシア語の歴史話から始まり、誰もが世紀を通じて話され続けてきたギリシア語の躍動感を感じ、自然と、今尚生きている「新約聖書のギリシア語世界」に入っていけるように配慮されている。学習者は著者のユーモアセンスを、込み入った説明の中にも随所で発見するであろう。
(東京のヘレニスト) |
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「レ・ミゼラブル」 |
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このあまりにも有名な映画のストリーに関しては多くを語る必要はあるまい。ただ、一度犯罪を犯した人間が更正することなどありえないと信じていたジャン・バルジャンを追うジャベール警部が、最後にジャン・バルジャンが本当に違う人間になっているのを否定できなくなり、今この場で彼を逮捕することが果たして本当に正しいことなのだろうか、と葛藤するシーン、に関してだけ一言コメントしよう。
もしこの場でジャベールがジャン・バルジャンを逮捕し、投獄すれば、この親子の幸せな暮らしをぶち壊してしまうことになる。ジャベールは迷った。ジャン・バルジャンを捕らえるべきか見逃すべきか・・・。
結局、ジャベールはジャン・バルジャンを見逃した。だがジャベールはいったい何に葛藤したのだろうか。それは日本語の字幕からは読み取れない。
この時ジャベールが発した言葉を日本語の字幕は「ふたつの正義の間で迷っている」と訳していたが、原語では「ふたつの犯罪(罪)の間で迷っている」と言ったのだ。この発言の背後には、西洋世界、キリスト教世界の「義」の概念が横たわっている。日本語の字幕からは決して読み取れないジャベールの発言の真意は、「逃がすのは法に照らして罪、そして、捕まえるのは、人間として、より大きな罪だ」ということなのである。
このふたつの「罪」の間でジャベールは悩み、結局、より小さな「罪」を彼は選び取った。それを彼は「正義」とは言わなかった。彼はこの矛盾を整理できないまま、その罪の責任を自らとって、川の中に身を沈めたのである。ジャベールの行動の背後に、義の神のイメージがあることは間違いない。そしてその向こうには、イエスの十字架が横たわっている。
(東京のヘレニスト) |
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